表三郎さん論文感想 (3)
表三郎さん論文感想 (3)
『年誌』一二号、表三郎さん論文「いまこそ根源へ」の感想、というより、触発されて、また考えてみたことなど。以前のM&R研究会「表さん公開フォーラム」(加藤正ネタ)の感想も含む。
こちらの論点は三つ
1、「フォイエルバッハ・テーゼ」解釈、「対象的活動」
2、アルチュセールの「偶然」性。「単なる主義」と「理論」と「客観性」
3、「類的存在」の扱い方
今回は「3」の部分。(「補」の部分はすべて以前の文章からの抜粋)
□3□、「類的存在」の扱い方
「階級社会」も社会のスタイルのひとつ。「人類前史」も人類社会のひとつ。
「類的存在」というカテゴリーには関係論がないから、その都度の歴史的社会に固有の独特の形態規定的性格を捕えきれない。そのため「ないものとあるものとの対比」という思考方法になりがち。「類的存在」そのものも媒介抜きに実体化されてしまいがち。
「正常位」もそれじたいは「あれをこうしてこっちをなにして」等の変わったスタイルと同様、48分の1の変態的スタイルのひとつでしかないのだ。共同性が共同生活・・・と同様。
「透明な媒介」も媒介のひとつ。媒介抜きのすっぴんではない。つまり「正常位」が普遍化するのではなく、48のすべてのスタイルが普遍性を獲得してゆくこと。労働とあらゆる諸行為も、貨幣と媒介一般も、同様だ。「類的存在」を目指すというのではなく、肝心なのはその「類的存在」そのもののスタイルなのだ。
以下は昔の文章からの抜粋。
つぎに「労働そのものの直接的測定が可能になる」「人と人との関係が透明に見通せる経済システム」についてですが、今村(仁司)さんとの対比で考えてみました。今村さんは「貨幣に物的に媒介される」という言い方で、「貨幣-物-媒介」をつなげることによって、その対極にあるはずの「透明共同体」をいわばまるはだかの、スッポンボンの直接性とでもいうべきものとイメージさせているようです。そのうえで、まるはだかの透明共同体の不可能性を語っています。つまり「貨幣がない-物がない-媒介がない」ということになり、それが「透明共同体」や「直接性」の意味内容とされるわけです。
しかしぼくはこれは少し違うんじゃないかとおもいます。もちろん「透明共同体」や「直接性」をこのようなものと認めたうえで、今村さんとは逆に、その「透明共同体」や「直接性」を肯定する立場もあるでしょう。石塚さん、吉田さんとも、どちらかといえばそのような立場ともおもえます。しかし「透明」とまるはだかとは違うんじゃないだろうか。今村さんの「媒介」という言葉、あるいは廣松渉さんの「物象化」なり、栗本慎一郎さんなら「パンツ」ですか、それらはヒトにとって、いったいどのようなものなのか?資本制社会に特有なのか、階級社会に特有なのか、あるいは歴史貫通的、超歴史的なのか? このあたりは廣松理論にお詳しい石塚さん、吉田さんにお聞きしたいところです。宇野理論では「経済原則という実体が経済法則という形態を通して営まれる」といった理解もあります。そこで、この経済法則という形態が引きはがされることによって、はだかの経済原則なるものがあらわれる、ということにもなってくるのです。
ぼくは廣松さんの「物象化」というのは、どのような人間社会にもついてまわるとおもいます。今村さんは「媒介」と「透明」とを両立不可能と考え、そのうえで「媒介」を選び、「透明共同体」の不可能性を語りました。また、この両立不可能を認めたうえで媒介と無関係の「透明共同体」をとる立場もあるでしょう。しかし、ばくは「透明な媒介」というのはありうる、両立可能だと考えます。貨幣も物なら労働証書も物。ただその透明度には質的な違いがある。透明なパンツを履くということは、スッポンボンのまるはだかとは全く別なのじゃないか。それと今村さんは「媒介」を主に貨幣で考えてますが、これは最低限、資本、それも個別資本ではなく、個別資本を越えた経済法則なり価値法則なりとして、私的な商品所有者の思惑を越えて社会的再生産過程にあらわれる「見えざる手」、「景気」として考えるべきだとおもいます。マルクスの労働証書も、労賃としての貨幣にひきよせて考えられ、資本としての貨幣のもつひろがりが生かされてないようです。もっともこの言い方では「純粋資本主義モデル」にとらわれすぎているかもしれませんが。
それから「人々の社会的生産への責献が正しく社会的に評価されるシステム」ということについては、吉田さんも別の観点から指摘されてますが、やはり「正しい評価」ということに引っかかってしまいました。それでは、結局のところ既存の物理的な因果関係にもとづいた評価システムの枠組みにおさまってしまうのではないか。しかしさきのラクラウにもあるように、ヒトの行為こそ「閉鎖的なシステムのなかに位置していないので、意味の過剰をもっている」のであり、「社会に実在するすべてのものの究極的な非固定性を明らかにする」(ラクラウ)と言えないでしょうか。
なにが労勧とみなされ、なにが無駄、徒労、趣味とみなされるのか? なにが使用価値とされ、生産物とされ、なにが廃棄物とされ、無用物とされるのか? なにが生産過程とされ、なにが消費過程、流通過程とされるのか? 境界線は確かにあるけれど、それは決して固定されたものではない。なにが単なる私的行為とされ、なにが社会的に公認される行為となるのか?(これは単独行動か、集団行動かという区別ではありません。)なにが私的行為とみなされ、なにが犯罪と社会的に認められるのか。なにが結果としての生産物に顔果関係をもつ行為とされ、なにが無駄な、無益な行弟とされるのか?ある社会では「祈祷」もまた生産に必要不可欠の行為とみなされていた。とするなら、現代の膨張する媒体費-広告・宣伝・流通費など-や軍事費なども、現代の「祈祷」とも考えられます。ちなみに『資本論』では流通費用、商業労働のあたりで、すでにすったもんだしているわけですが。石塚論文とは離れますが、ついでに言うなら「広告・宣伝費」や「軍事費」とくれば即、不生産的消費=再生産外的消費だとみなしたり、「贅沢」「無駄」「バブル」などの言葉をまるで常識どおりに使ったりする、マルクス経済学によくみられる傾向は本気で考えなおすべきでしょう。
日常的に「社会に出る」とか「社会人になる」とかの言い方がありますよね。社会的に認知され、かつ価値形成的とされる労働行為。社会的に認められてはいるが、価値形成的ではないボランティア行為。そして社会に出たとはみなされない単なる私的行為とされるもの。たとえば「家事労働」とよばれている行為も、商品化されていないという理由だけからでも、資本制社会の評価システムでは評価しにくい行為でしょうが、その外側にも無駄、無用とよばれるさまざまな私的行為があります。労働は、それら労働になりえない非労働的諸行為の「徒労の世界」にたいして、社会的に公認された行為という特権を享受してもいるわけです。さすがに最近ではあまりみかけなくなってきましたが、マルクスのクーゲルマンヘの手紙-「どの国民も、もし一年とは言わず数週間でも労働をやめれば、死んでしまうであろう、ということは子供でもわかることです」-という類いの発言をいくら繰りかえしてみても、「労働」を閉鎖システムとする思考法から、脱けだすことは不可能でしょう。
「関係の第一次性」の構え。「先立つスッピンのもの」を想定しない発想がデフォルトとなってくるのは七〇年代以降だとおもうが、廣松もその大枠のうちで受容された。「森羅万象の物象化論」の部分が、「現代思想」一般と同様に民衆の占入見の変化に合致していたのだ。オトコ連れ込んでたというたぐいと、「純真な」アイドルであることとが矛盾しなくなった時代。いかにも純朴そうな「リンゴのほっぺ」や「どんぐり眼」や「しわだらけの本物の働く男の手」のようなアイテムを、そもそも本来の「天然」としてでなく、スタイルのひとつとみる立場。これは「成熟」のある種の姿だろう。
廣松では「特殊歴史性と超歴史性(歴史貫通性)」の区別という宇野経済学的発想は生かされていないようだ。価値(商品価値)についても、同時に「人間と自然の物質代謝の側面」じたい(あらゆる社会に通じる物象化)についても実体概念ではなく関係概念だとしているが、別の抽象度の問題なのにこの区別ははっきりしていない。『資本論の哲学』で特殊歴史的な商品や貨幣をあつかっても、あくまで独自の「四肢的存在構造」の例証のひとつとしてであり、商品や貨幣に固有の特殊歴史性を際立たせることに成功していないのだ。
(あ)廣松の人間観の特徴は「四肢的存在論」「事的世界観」にある。
(い)廣松のなにを評価するかといえば「四肢的存在論」「事的世界観」を評価する。
(う)この「四肢的存在論」「事的世界観」次元での「物象化」を、人間一般にとっての制度、媒介、規範、権力の問題とのつながりで考えてみたい。
(え)「四肢的存在論」にもとづいた廣松の「資本主義批判」、さらに階級社会一般に照応する事態の批判の試みは成功していない、あるいは不十分だ。
(お)この理由は「批判」が「四肢的存在論」にもとづいていたからではなく、資本主義の特殊歴史性の具体性に即した解明として不十分(上向しきれていない)ということである。
あらゆる社会に通じる労働過程や「対象的活動」の解釈問題と読むなら「疎外論から物象化論へ」というのも、あまりに素朴に了解されすぎてきた「表現論」にたいして、歴史的、社会的に被媒介的な存在構造の論理、すなわちあらゆる社会に通じる物象化論を強調するためのフレーズだったと考えられる。
六〇年代の廣松理論の「受容」のしかたとはべつの、七〇年代以降の世の中での廣松理論の楽しみどころというか、おもしろさは、『資本論』「商品論」からインスパイアされながらも「特殊歴史性」を突き抜けてしまったような部分、あらゆる社会に通じる労働過程まで実体概念でなく、関係概念として読み込んでしまう「協働」をキーワードとする「四肢的存在構造」の部分にあったのではないだろうか。あらゆる社会に通じる物象化と、資本主義的商品経済に特殊なそれとがごっちゃになってるのはデメリットだが、ともかく「労働過程」や「対象的活動」まで「共同主観的・歴史的な」「対自然的・間人間的な協働連関」と関係概念化したことが廣松のメリットだろう。
マルクス価値論の廣松的評価、古典的実体観の批判とは、一面では(1)の次元での一九世紀的な近代一般のはなしだったが、(2)を経由させることでより現代的な問題意識と串刺しにされた。つまり(A)一九世紀の古典派的な実体観にたいし二〇世紀的(?)な(帝国主義時代以降とも第一次大戦以降ともいえるか)関係論を対置し、(B)そのさい問題設定の具体的な時代背景を抽象化した人間一般論としての「四肢的存在論」によりながら、(C)マルクスの近代批判を媒介に近代・資本制の原理を読み替え、批判した。オーソドックスなマルクス像から区別された二〇世紀的な問題関心、危機意識が導入(A)され、しかも『資本論』の読みかえという媒介項をとおす(C)ことで、具体的な時代背景と一般的な原理=哲学とが直結されがちな、大衆社会状況下のよるべなき「個」に定位した「主体性論」などの接近法とも区別(B)されたのだ。
→[補3]
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[補3] 特殊歴史性と超歴史(歴史貫通)性
マルクスの疎外論には二面。
(1)「対象的活動」の位相(「<自然>哲学」における疎外論)
吉本ふうにいえば「<歴史>哲学」におけるそれと区別された、「<自然>哲学」におけるそれ。
すなわち「本質的な、それゆえ不変の概念であり、社会がかわればかわるというふうにかんがえられてはいない」「疎外論」。新田滋いうところの「根源的位相での疎外」。「対象的活動」の論理。
→これは廣松物象化論では「共同主観的な対象的活動、歴史的プラクシスとして」(同前)まさに「対象的活動」の「主体」を「対自然的・間人間的」なものと膨らませることで初期マルクス「対象化」の論理じたいを『ドイツ・イデオロギー』へと繋げてゆく。もともと「協働」を鍵言葉とする四肢的存在構造の物象化論理へと収斂させてゆく。
人間の諸行為・諸活動をまるごと「協働」と考えている。
(2)「生産関係」の位相(「<歴史>哲学」における疎外論)
「疎外論」のように主体が単独モデルでは、「類的本質」でも「抽象的一般的存在」でも歴史の動態は同一主体の遍歴史としか描けない。「疎外論」の対象的活動モデルは主体が単独モデルなのでもともと特殊歴史的状態を生産関係から展開できない。(註)「物象化論」の「協働」は社会関係(生産関係、階級)を含む「複数主体モデル」なので、「社会関係」が入ることで、すなわち各種形態=スタイルをとる生産関係、階級対立の位相が導入されることで、特殊歴史的各スタイルの差異を示す視座が獲得できた。ただし「必然性」の論理、「確率変動」による廣松流の「確変・構造変動論」(いうならば「CR唯物史観」)はまた別のはなしだ。
で、(1)、(2)のどちらについても、主体が単独モデルの「疎外論」の論理は「複数主体モデル」の物象化論の問題設定上(プロブレマティーク)で十全に展開できると考えてます(「断絶」説でも「連続」説でもかまわないけれど。「疎外論」に固有で、「物象化論」が取りこぼした足りないものはないだろう)。
「人間と自然との過程」や「目的充足過程」などは、いわばヒトの行為の一般規定とでもいうべきものだから、労働の規定がこれだけでは、あらゆる行為一般が労働になってしまうのは当然だ。特殊歴史的なカテゴリーとされる労働を規定するには、社会的公認や評価、社会的合意形成の問題抜きには不可能だろう。そのためにはロビンソン・クルーソーふうにも解釈できる総労働・代表単数型の『資本論』での労働過程モデルよりも、類と個、公と私の分離、対立といった初期マルクスによくみられた問題設定の場面のほうがよりイメージしやすいかもしれない。
類と個の一致する状態なるものを想定するならば、そこではあらゆる行為がそのまま社会的に公認されたものでもあるわけで、あらゆる行為が「労働」となるともいえるし、「労働」が、その他の諸行為との関係で持つ特権がなくなるわけだから「労働」が消滅するともいえるだろう。この状態こそ、文字どおり「人間のあらゆる行為が実は労働」となる世界のはずだ。「現実の個体的な人間が・・・・個体的な人間でありながら、その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在となったとき、・・・・固有の力を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力というかたちでじぶんから分離しない」(『ユダヤ人問題』)というわけだ。これはとりあえずは想像力のはなしだ。
階級社会とよばれる世界では、一般に類と個、公と私の対立、分離がいえるが、特に資本制社会では社会的な評価、合意形成が、もっぱら貨幣による商品の購買というかたちに限定しておこなわれている。購買というアテストをクリアしたものだけが社会的な有用物、生産物とされるのだ。そこでは諸行為のなかで賃労働だけが社会的に公認された行為としてそびえたつ。そして歴史的な意味でも、社会的人間の歴史的存在の連鎖のうちにリンクされるのだ。つまり「賃労働」は、資本制社会に独特な手順を経て「抽象的人間労働」としても認められるのである。荘司論文でもとりあげられていた今村仁司『近代の労働観』の「公的承認」の問題も「承認願望は、あくまでも労働者個々に帰属する精神」(荘司、八一頁)であると同時に、単に個々人の内面だけではすまない。この承認の手順の問題を抜きにはかたれないのだ。
価値は貨幣として購買し、個別資本として運動し、さらに個々の経済的人格を離れ、個別資本の力を構造化し、不均衡を均衡化する見えざる手、すなわち景気として、最終的に諸行為のうちから労働を選抜し、尺度し、あらゆる諸行為の間に労働/非労働の境界を引いてゆく。詳しくは大昔に書いた「労働の特権性批判」(『季節』一〇号)、「「透明な媒介」は可能か」(「MRレビュー」二号)を参照、なのだが、これこそかつての今村の(『労働のオントロギー』などでの)「もろもろの具体的労働の間から」「分裂的に自立する」姿での抽象的人間労働というものだろう。今村の抽象的人間労働、非対象化活動、アソシアシオン労働は、ようするに資本制社会での類的紐帯、価値、媒介である。乱暴ないいかただがこれらはすべて等号でつながるのだ。
そしてこの分裂的に自立した抽象的人間労働がふたたび着地すべき場所は、具体的労働ではなく、さらにその下方、あらゆる行為一般の地平なのだ。ただし今村もマルクスの「透明共同体」にたいしては「生産系の世界を尺度する」媒介を貨幣か、せいぜい個別資本で考えているようだが、媒介はその最高次の場面で、景気という見えざる手の場面で考えるべきだ。
すべての社会状態に共通するような人間の物質代謝(経済原則)は、資本制社会では売買行為など商品経済に固有な姿(経済法則)で営まれるのだという宇野の基本命題がある。この命題を逆に法則の側から強引に押しひろげてみる。つまり、法則や形態は原則の実現態で、かつ原則がそれ自身ハダカのまま現れることはできないと考えれば、現代資本主義的な欠落感、空虚感をテコにして正常と変態、自然と人工、直接性と間接性、などなどの単純な二分法の発想の転換がはかれるのではないか。『搾取される身体性』の「あらゆる行為が<労働力>再生産労働」というくくりかたは、むしろ古典的なマルクス解釈のままの論理を新しい事実へ敷衍・適用するだけの、後ろむきの守りの方法のようにみえてしまうのだ。
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