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2008年9月14日 (日)

「自己決定の社会化」と「全体の可視化」(M&R研究会、市野川さん公開フォーラムの感想メモ)(2008)

2008年の「M&R研究会・市野川さん公開フォーラム」への感想メモ。
カール・パーキンスの「ブルー・スェード・シューズ」。
市野川さんの「自己決定の社会化」と「全体の可視化」との関係。
市野川さんの「全体の可視化」と「「統合の過剰」批判」とはどのように接合するのか。

●「社会的なもの」
social(形容詞)とsociety(名詞)。「社会的なもの」といういいかたは、実体的のようにも、名詞的にも感じられる。

●ブーフホルツ、アレント、フィヒテなど(市野川レジメ8-9ページ)。

以下、市野川さんレジメ8-9ページから孫引き。

「[世襲貴族と同様]、ユダヤ人もまた、平等=同一性を犠牲にした上での自由を不動のものにしようとする。・・・両者はともに労働を、すなわち平等から自由へ至るための真の手段を、同じように嫌悪する。」(アレント)

「たとえユダヤ人がわれわれの人権を認めなくても、われわれは彼らの人権を認めなければならない。・・・しかしながら彼らに市民権を与えるということになれば、話は別である。」(フィヒテ)

同じ土俵上にのらない人々にまで認めなければ人権の「普遍性」は成り立たない。同じ土俵上にいるのなら、「敵」であれ、いわば責任ある「敵」ということなのだろうか。
それでは、アレントのいう「世襲貴族」なり「ユダヤ人」なり(あるいは林家三平なり)、「四角い座ブトン」を離れてしまった人々はどうなるのだろうか。

「人びとを国民という単一体に融解させること」(ブーフホルツ)。
「たとえユダヤ人がわれわれの人権を認めなくても、われわれは彼らの人権を認めなければならない。しかし市民権を与えるということになれば、話は別である。私の見るところでは、そうするための手段は一つしかない。それは現在のユダヤ人全部の頭を一夜のうちに切り落として、いかなるユダヤ的発想も持たぬ別の頭をくっつけてやることである」(桝田啓三郎・訳『フランス革命論』フィヒテ、一七九三年)

「労働」(アレント的用法での)なり「領土」なりにたいする(アレント的用法での)「ユダヤ人」の「無責任性」。「資本」にも通じる。

はめるタガとしての「人権」!。義務や責任を考えない人々にまで一律に権利を与えるものとしての「人権」。「企業内従業員組織」にもいえる。
しかし、その先に(アレント的用法での)「ユダヤ」的無責任性、無国籍性は、「同化」の対象とされるのか、切り捨ての対象とされるのか。アレントも小林も無責任への嫌悪で同じこと。責任ーナショナリズムー社会。

●市野川さんの勤務大学での「従業員組織」のはなし。そこでは、当該の職場への帰属意識の希薄な「臨時講師」が「無責任」なものとされる。

●根本は市場そのものが、市場を形成する行為そのものが、含有する「社会的成分」の評価の問題。スミスの評価。トムソン、ベイリーらのリカード派社会主義者の主意主義(既存の体制をそのままにしたうえでのそれ)。

市野川の市場観→市場の無政府性=市場の無秩序性ととらえている。ゆえに上からの「社会的なもの」の導入が不可欠なのだと。

しかし「デザイナーなきデザイン」ではないが、市場の無政府性=市場の無秩序性ではないというのが、古典派のパースペクテイブだった。

ここを誤ると、「自己決定の社会化」も、内面の自己責任の「社会」(society)大までの肥大化、ということにもなりかねない(「透明度100%」)。責任と無責任。自己責任と自己無責任。市野川のロジックは両義的であり、きわどいものがあるのだ。

市野川流のスミス評価では、市場が「無秩序」とされる分、秩序は「責任」=他者抜きの、境界内部の、自己充足的なそれ、の側に占有されてしまいそう。

アレントのいう「ユダヤ的」なもの=境界を越える、ないしは境界線上の、「ボーダレスの無責任性」(与えられた権利は享受しても、義務について、境界線の内部で責任をもたない)の意味の問い直しの必要。

●際どさ、二面性。
市野川の効めセリフのひとつ「自己責任の社会化」も、一面では、「社会(society)」内存在としての自己の相対化。「責任」の相対化。
しかしもう一方で、充足的自己の「社会化(social)」までの肥大化の方向ということにもなりかねない(市野川のいう「全体の可視化」)。「責任」の肥大化。

●境界と無責任。
責任を超えるものとしての無責任。=境界内の充足的共同性(「社会化(social)批判。キーワードは責任と無責任。「自己責任」と「自己無責任」。市野川のロジックは両義的であり、きわどいものがある。

ここを考えるには、市野川流のスミス評価、市場評価の問題点を避けてはとおれない。市場が無秩序性とされる分、秩序は「責任」=他者抜きの、境界内部の、自己充足的なそれ、の側に占有されてしまう。(アレント的用法での)「ユダヤ的なもの」=境界を越える、ないしは境界線上の、「ボーダレスの無責任性」(与えられた権利は享受しても、義務について、境界線の内部で責任をもたない)の意味の問い直しの必要。

左右問わず、前向きの人間、「責任型人間」、実態的ないみでの社会参加志向(手触りの実感志向)人間はいつでもいるだろうが、(アレント的用法での)「ユダヤ」人の「無責任性」もまた不滅だ。
時代の風が「動員」に向いているとき、単に素朴な、吉本いうところの「自己表出ならぬ自我表出」では、無防備すぎないのか。
「自己決定の社会化」(市野川さんの「「統合の過剰」批判」と「全体の可視化」との関係)の際どさ、両義性。だからこそ、この時代にマッチしているのだろうが。

●サラリーマンの無責任のベクトルが、個別企業の「領土」を超えればクレイジー・キャッツ『ドント節』三番だ(「パチンコ競馬に競輪、麻雀、負けりゃヤケ酒、また借金!」)。

●「私利私欲」の階級性=社会性(形容詞)。私利私欲のもとづく行動は個別企業全体の利益(境界=ボーダーの内部)と一致しない。

→スミスの市場ではなく、マルクスの資本主義だから。=階級対立=剰余価値論。パイ全体の絶対量が増大しても、相対比では階級間は対立する=相対的剰余価値。

→国境=個別企業という枠組み=ボーダーを越える視点。
根本はキーワードとしての「所有」(市野川レジメ3ページ)。
ロック、ヒューム、スミスの「所有」→マルクスでは「私的所有」。
スミスの「市場」→マルクスでは「資本主義」=賃労働と資本。

●「私利私欲」も単純でない。七〇年代、井上陽水『傘がない』のような「公」(「テレビのなかではお偉いさんがむずかしいはなししているが」)と「私」(自分にとって大事なことは「君に会いに行く傘がない」ことだ)との絵に描いたように素朴な対比じゃすまない。

五〇年代、元祖・子持ちロッカー、ブルー・ワーカー、プア・ホワイトのカール・パーキンス『ブルー・スェード・シューズ』では対比が動的で格が違う。「私利私欲」は軽々と境界を越えてゆく。

おれの納屋を燃やして構わない
おれの車を盗むのも、おれのドブロク盗むのもいいさ
やりたいなら何をやるのも勝手さ、ハニー
ただおれのブルー・スェード・シューズだけは
踏むんじゃないぜ!

------カール・パーキンス『ブルー・スェード・シューズ』(一九五六)

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