「帝国主義」関連の投稿補足(4)
「帝国主義」関連の投稿補足(4) 鬼薔薇さんの「談話室」板
http://8717.teacup.com/onibara2/bbs
への私の投稿から。まずは前回途中までしかコピーしてなかった、続き。
題名:「“社会の再生産力”の危機」(承前)
投稿日:2005年 9月16日(金)20時56分53秒ついでに以下は「読書室」板の話題への感想です。レーニン・テキストと直接関連しないので、こちらに投稿します。
数年前、エロ画像探索中にたまたま迷い込んだのが確か「遊撃インターネット」。その後、リンク先をたどり「共産趣味」の世界をはじめて知り、その頃はやっていた「四トロ同窓会」や「マル共連」などをぼーっと眺めていた。
自分が『資本論』に凝っていた時期は七〇年代くらい。でもその当時すでに主流は宇野や廣松の『資本論』解釈で、古典的な『資本論』解釈はとっくに色あせていた(多少、誇張もあるか)。だから、いまどきの若い人たちの『資本論』への入り口も、柄谷や今村あたりかと漠然とイメージしていた。「共産趣味」系掲示板の「労働価値説」や『資本論』関連諸投稿をアトランダムに拾い読みしてみて、解釈の学派うんぬん以前のあまりに初歩的ミスは別にしても、そのあまりに古風なたたずまいにびっくりしてしまったことを思い出す。「退化」というのはあるんだなあ、と実感したものです。
外野から眺めていて、当時の「共産趣味」小世界では、言いっ放しの「断言肯定命題」の繰り返しスタイルも一般的だったようにおもう。サンプリング・レート低かった(=チェックをマメにしてなかった。現在でもそうです)ので間違っているかも知れないが、そのように感じられた。
それに比べ鬼薔薇さんの「読書室」板は、どんな立場からであれ、個々の参加者がともかくレーニン『帝国主義論』のテキストという同じひとつの土俵で解読ゲーム(読書会)をおこなうという、「通常」の読書会の作風を持っている一点で評価してます。このスタイル自体は、ネットの内外問わずあたりまえのことなのだから、既存の趣味者の小世界(共同性)の解体・両極分解を推し進める「文明化作用」なのだ、といえなくもないし。それでは。
次も九月のもの。
題名:一次大戦以降の世界
投稿日:2005年 9月23日(金)09時46分9秒鬼薔薇さん、こんにちは。
>>
ただ今日、“「現代」帝国主義”を果たして「大衆社会」に帰着させられるのかなと思うのですね。リースマンいらいの「大衆社会論」が扱った現象は、資本制の発展・爛熟期に於ける社会現象でしょう。上に並べました具象的(物象的)現象は、実はそうした発展・爛熟の後に来たもの、いわば「大衆社会」の自己否定を表象するものではないのか、それは、G→G+△Gという“資本の原型論理”が、生産や消費といったあらゆる媒介を無化した裸形で自己表出する時代のもの、「寄生性」が「寄生」対象から“自立”を遂げて自己運動するに至った時代のものではないのか、と。>>
ガキの頃、橋川文三かじったせいなのか、第一次大戦以降の世界を、一九二〇年代のような解体・浮遊化と「そのウルトラ化による擬似的な再統合の過程としての三〇‐四〇年代」の「擬似的」再統合化との両極をゆきつもどりつしている相補的な世界構造、とみる発想がもともとあったのです。
自分流にかじった橋川の、ナショナリズムの核の喪失過程とそのウルトラ化による疑似的な再統合の過程の繰り返しのイメージ、超国家と解体国家の順巡りのサイクルをくりかえす世界のイメージは、宇野による「価値尺度の骨髄を抜かれた」現代資本主義像にもつながったわけです。「解体・浮遊化」と「「擬似的」再統合化」の両極を含む全体が、デフォルトのぶよぶよした価値秩序、関係の土台のうえに成り立っているのだろうと(大衆が「動員」されるという意味あいで、通常の「大衆社会」の用法をはみ出してしまったのですかね)。こんな観点から、戦前から戦後に継続する「国民主体動員思想」、ボランティア思想じたいを批判する中野敏男(『大塚久雄と丸山真男 -動員、主体、戦争責任-』)もすんなり了解してしまった。シュミットのいう「ラウム的感覚」の衰退、古きよき「やあやあ、我れこそは」の戦争が成り立たなくなる、「国家」も「王様」ももうかつての姿をしていない、カール・シュミットとアレントをとりあげた亀嶋庸一『20世紀政治思想の内部と外部』も納得できたのです。
>>
そのためのキーワードとして持ち出してみたのが「勤労」の一語でございました。もうひとつあげるなら、それは「国家」でございましょうか。
>>たとえば「寄生性」という評価軸では、もともとの恒久的価値関係・秩序の不在という大枠の相補的構造内での一極から他極への批判であり、さらに一階層下の大枠を見失うことになるとおもいます。この大枠内での、単純なものへの擬似的な回帰のながれに身をゆだねることに無防備なのではないかと。
あるいは直接に、あるいは真綿で首を締めるようにして、ワイマール下の「解体・浮遊化状況」がなにを抑圧してきたのか、なにを欠落させてきたのか。その「飢餓」はなによって、擬似的にであれ満たされようとしたのか。麻雀の親が移り方位が替わってゆくように、当事者意識、日常意識も「求心性 対 拡散化・相対化」や「主体 対 制度」のような二極のうちなら、後者から前者へともう一度シフトしつつあるともいわれます。それでも今日、かつての丸山真男「知識人論」やルフェーブル「日常生活批判」などが再び話題になるとしても、ここまで通過してきた主体の変態性という回路を通さずには済まないし、もう戻れやしない。
「清潔」なもの、「変わらない」もの、「はっきり」したもの。汚れなき直接性としての話し言葉や、無垢な自己表出や、清潔な使用価値や、トイレに行かない聖女など、あらゆる本来的なものの想定が成り立たなくなった時代意識は、ただの表層の二項対立の一項の側に解消させてしまえないが、しかし替わる「座風」のもうひとつ下層、つまり麻雀なら「現代資本主義世界の場?」の「場風」は、どの立場からしても、いまだに解読済みではないとおもいます。それでは。
次も上のはなしと繋がってる。
題名:「根腐れ」とマルクス主義と現代思想
投稿日:2005年10月 2日(日)21時33分48秒こんにちは。
●社会の「根腐れ」
鬼薔薇さんの
>>
“さらに一階層下の大枠”、そこで社会が根腐れを起こしつつある、今の「破局」のイメージはそのようなものと申せば、少しは感覚が伝わりましょうか。そこへ錘鉛を降ろすことのできる理論というものの手触りを求めてまいりたく思うのですけど。
>>この「根腐れ」のニュアンスあたりで、少し違うのかもしれませんね。
四月ころ投稿した「新自由主義」ネタと重複しますが、侘美光彦のふたつの市場機能でいえば、周期的恐慌もふくむ景気循環をとおした、社会的生産・再生産の(生産価格的な)均衡的編成こそ市場機能の健全な姿だが、この市場機能は、一九二〇年代以降に変質したとされる。貨幣による価値尺度機能、価値秩序形成機能が効かなくなったということなのでしょう。
あとはだましだまし、成り行きまかせの「計画」と「統制」をどの程度試してみるかの程度の違いで、超国家と解体国家も同じこの土台上、土俵上ではないのか。かつての「自由主義」と「新自由主義」との大きな違いのひとつは、現在は、かつての貨幣・商品金による経済過程の「野蛮な」「自動調節」作用(恐慌を含む景気循環)に耐えられなくなった、試行錯誤の「手動」調節(根本の「資本」は変らないから、どのような現世的効能の「実現可能」なプログラムや「処方箋」を標榜しても完全手動制御は不可能)世界ということだとおもいます。先日読んだコラムで、金子勝は、行き着く先は「ナショナリズムなのか、アナーキーな破壊なのか」(05/09/27付『朝日新聞』夕刊)とか書いてました。
現下の相補的構造の一階層下の、人類が獲得したいわば「退廃」の地平を正当に評価しておくこと。この「退廃」の経験値をもたない、健全すぎる「不安」や「破局」のイメージからは、ただのユルユルの「相対化」か、(右であれ左であれ)ハッキリした「実感」の擬似的世界にしかたどり着けないだろう。「ズラシ」・「逃走」・「相対化」対「太くて硬いもの」・「清潔なもの」・「変わらないもの」・「汚れなき直接性」。あるいは「アナルコ・キャピタリズム」対「コミュニタリアニズム」でも、これらは同じ掌の上での表層的な対立で、一極から他極への非難だけでは相補的構造の枠内に収まってしまう。
「稽古不足を、幕は待たない」、<恋>は「いつでも初舞台」(梅沢富美男『夢芝居』)なのを承知で言っても、ただ「虚業」に乗っかるのはもちろんだが、「虚業」に「実業」を対置するのも、擬似的な統合化の局面で、私事に解体されたかのように見える「個」にただ「公」や「統合」を対置するのも、このサイクルに乗ってるだけで、繰り返し状態を喰い破ることにならないだろうとおもいます。●マルクス主義と現代思想
以下はTAMO2さんの投稿への感想になります。
湿っぽい、ホコリまみれの山の中から古雑誌一冊、無作為に引っ張りだしてみます。
『情況』一九七一年三月号。定価二三〇円。
表紙まわりの書籍広告を見ると、表四(裏表紙)一頁指定席の三一書房はロングセラーの村上一郎『北一輝論』、廣松渉『唯物史観の原像』など。
以下、風媒社はパルブスの評伝『革命の商人』、バラバーノフ『わが反逆の生涯』など。現代思潮社が第二期トロツキー選集13『戦時共産主義期の経済』のほかにブロッホ『異化』、アンネンコフ『同時代人の肖像』など。合同出版のアブリッチ『ロシア・アナキズム全史』、永山則夫『無知の涙』はいずれも近刊予告。社会評論社はホロヴイッツ編『アナキスト群像』やコルニュ『マルクスの思想的原像』。滝田修や清水多吉らの『ローザ・ルクセンブルク論集』は自社広告。
記事中タテ1/3雑誌広告には『構造』、『京大新聞』、足立正生、平岡正明、松田政男ら編集『映画批評』、中村とうよう『ニューミュージックマガジン』、『現代の眼』の現代評論社は松本健一『若き北一輝』などなど。
本文のほうは特集が清水多吉+橋川文三対談「戦後啓蒙主義の崩壊と30年代」を筆頭に秋山清や末松太平らの論考六本ならんだ「日本ファシズムの再検討」。目玉が「本邦初訳」ブロッホの「カール・マルクス論」(『希望の原理』の一部分)一五〇枚、長期連載が菊地黒光「十月革命の挽歌」(この号は「緑の叛乱」の二)。大内秀明の向山景一との論戦「続ロマン派経済学批判-向山景一氏の宇野理論批判をめぐって-」もあった。で、自分が問題外とみなしていた(もちろん今でもみなしている)古いマルクス主義「訓詁学」(説教)と、TAMO2さんたちにとっての「言葉遊び」としての現代思想との間に、もっと豊饒で混沌とした世界もあったはずなんですよ。フランス現代思想の評価うんぬんよりも、このあたりの肥沃で混沌とした世界が、マルクス「趣味」?の奇特な若い人たちの間でも、忘れ去られているようにおもえたのです。
それでは。
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