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2009年7月

2009年7月27日 (月)

「再生産」関連の投稿(8)

「固定資本部分の生産」と「最終生産物」。「おまけ」付き。
「再生産」関連の投稿から、回数未定。2005年、高望みさんの「経済学・哲学掲示板」板へ投稿したもの。

投稿日:2005年 2月 8日(火)07時15分30秒
「固定資本部分の生産」 投稿者:ストリング

こんにちは。

Jimmyさんの

>>
生産過程で生産的に消費された分だけ個々の生産物に死んだ労働時間が移転していくのだが、これはそれに対応して生産手段生産部門で、その固定資本部分の生産が進行し、新たな労働時間が支出されている事態が平行しているのだ、と教えられたわけです。さらにこれの下敷きとなっているのが、流動資本部分についてのC2が当期に生きた労働によって形成されたV1+M1によって期末に補填される関係なのだと。
>>

「固定資本f・流動資本z」系の分類法と「不変資本C(今回補填分の固定資本+(流動資本-労賃))・可変資本V(労賃)」系の分類法の違いの問題はおいて、大雑把に、上の引用の「固定資本・流動資本」を「不変資本・可変資本」におきかえてもかまわないなら、上の事態をあらわし、「その固定資本部分の生産」の「進行」を簡単に式で示したのが、C1+V1+M1のC1だとおもうのですが(実際には部門内交換されるが、抽象されたから自己補填にみえる)。

「その固定資本部分の生産が進行」するのと「個々の生産物に死んだ労働時間が移転」するのとは、別のことなのか? 同じ事態ではないのですか?

モノとしては、C1(生産手段)+V1(労働力)を使ってC1+V1+M1相当分の生産物ができる。
価値としては、新年度生産物価値(「年々の生産物価値」)のうちの一部(V1+M1相当分=「価値生産物」)は「労働日」中に対象化され、一部(C1相当分)は、消費され・無価値化した旧価値相当分が「移転」、乗り移る(これはマルクスでは「労働日」中の生きた労働の「具体的・有用的労働」の側面から説明される。生きた労働によって移転、保存された時点で今年の(「年々の生産物価値」)の一部となる)。

いずれにせよ旧年度の価値物C+V+M(「年々の生産物価値」)のうち、
M部分は資本家その他によって消費され、旧価値を喪失。
V部分は労働力商品と交換され、労働力を生産過程に引き入れたうえで、労働者によって消費され旧価値を喪失。
残ったのは生産的消費されるC部分と労働力。
労働力は生産過程で行使・消費され、旧価値を喪失するが、新生産物に新しくV+M分の価値(「価値生産物」)を付加する(マルクスのいう生きた労働の対象化。マルクスではこれは労働力の生産過程での行使(=生きた労働)の「労働時間」から説明)。
C部分は旧価値としては価値を喪失するが、C分の新価値として新生産物に付加される(マルクスのいう旧価値からの移転。マルクスではこれは労働力の生産過程での行使(=生きた労働)の「具体的・有用的労働」の側面から説明)。
新年度の価値物は、計(C+V+M)相当分の価値をもつ(「年々の生産物価値」)。

ということだとおもいますが。

それでは。

次はおまけ。

投稿日:2005年 2月 8日(火)11時29分24秒
おまけ 投稿者:ストリング

こんにちは。

お仕事まえに、おまけに一言。

2ちゃんねる(お気に入りは「お下品」板です)の宇野板、たまにのぞいてますが、どんな話題でもいいタイミングで「そんなことより青木孝平」と「孝平オチ」がつくので、つい、笑っちゃいます。
局地的市場圏間をつなぐ冒険「商人資本形式」のようなJimmyさんの立ち位置(永谷清ふう解釈なら「世界貨幣」にあたるか)。ポジショニングうまいな、とおもいました。

それでは。

もうひとつ。

投稿日:2005年 2月10日(木)09時07分16秒
「最終生産物」 投稿者:ストリング

こんにちは。

パンと小麦でも、鉄鋼でもいいとおもうんですが、ある観察期間内で「パン」になっちゃった「小麦」は、それ自身は価値物とカウントされない。これはそうですよね。しかし「小麦」のまま、「鉄鋼」のまま次期を待つ生産手段は、それ自身価値物として「最終生産物」ですよね、同じ期間内に再び生産過程に投ぜられるわけではないのだから。
第1部門に区分された機械や原料は、次期以降、「パン」にとっての「中間生産物」としてその期間内に再び生産過程に投ぜられるとはいえ、現時点では価値をもつ資材として「最終生産物」だろう。
逆に、現在、第2部門にはC2+V2+M2分の「パン」だけがあり、C2相当の消費手段生産手段はない。現在の「パン」に化けてしまったから。

このC2分の「パン」と、同量の価値をもつV1+M1分の消費財生産手段とが交換される。「パン」は全部消費され無価値となり、第2部門でいえばC2相当の生産手段が(次期の「パン」にとっての「中間生産物」として)V2分の労働力とともに残る。

労働・生産過程の結果新しく生産物(消費手段)ができる。

しかし出てきた新生産物の一部としてのC2(消費手段)と、この生産過程で使われた生産手段としてのC2とが同時にカウント、加算されているわけではない。使われた生産手段から新しい生産物への、それこそ価値「移転」なわけです。
これは二重カウントにはならないですよね。

マルクスは、一期間内のある時点で存在する「パン」も、「パン」にならなかった「小麦」も「鉄鋼」も、全部ひっくるめた巨大な商品群の生産部門を、大きく生産手段生産部門と消費手段生産部門にふりわけた(この時点で「パン」になってしまった「小麦」などは当然カウントされていない。「年々の生産物価値」の計算で除外されるべき「中間生産物」は、はじめからカウントされていない)。

つまり、第1部門にはその時点で消費手段ではない、価値量としてはC1+V1+M1に相当するすべての商品が集積される(もちろん機械になってしまった鉄鋼などは、もはやそのものとしては商品でないからカウントされない)。
第2部門にはその時点で消費手段である、価値量としてはC2+V2+M2に相当するすべての商品が集積される(もちろん「パン」になってしまった「小麦」などは、もはやそのものとしては商品でないからカウントされない)。

たとえば、第2部門にモノとしては200キロ・価値としては2万円の消費手段がある、というところから表式をはじめれば、少しはとおりがよくなりませんか。少なくともマルクスなりの理屈はとおっているとおもいますが。

で、このままでは新しい生産過程ははじまらないからC2とV1+M1が交換される。
つまり、このうち、モノとしては100キロ・価値としては1万円分の消費手段を、第1部門で生産された1万円分の生産手段と交換する。
残りのうち、モノとしては50キロ・価値としては5千円分の消費手段は資本家その他によって消費、生産過程外へ。
最後に残った、モノとしては50キロ・価値としては5千円分の消費手段は、労働力商品と交換した労働者によって消費、生産過程外へ。
生産過程には、1万円分の消費手段生産手段と5千円分の労働力が残る。
除外さるべき部分はきちんと除外されていませんか。

増えもせず減りもしない単純再生産。二重計算はないとおもうのですが。

毎日一本、21:00に発車する上り長距離列車「シベリア超特急5号」は30時間かけて終着駅に到着する。今日の23:00に、「シベ超5号」はどこにいるか。じつは同一レール上に「シベ超5号」が二台走っているのをアリバイ・トリックにした推理小説をおもいだしました。

それでは。

続けて、補足。

投稿日:2005年 2月10日(木)11時12分35秒
補足 投稿者:ストリング

ごめんなさい。
寝起きの下記投稿への補足です。

>>
しかし出てきた新生産物の一部としてのC2(消費手段)と、この生産過程で使われた生産手段としてのC2とが同時にカウント、加算されているわけではない。使われた生産手段から新しい生産物への、それこそ価値「移転」なわけです。
これは二重カウントにはならないですよね。
>>

同時にカウントされるのは、新しい生産物としてのC2(消費手段)と、同じく新しい生産物としてのV1+M1(時期の第2部門にとっての中間生産物となるが、現観察期間内では最終生産物である生産手段)とですよね。これも二重カウントにはならないでしょう。

マルクスの表式を(第2部門でいえば)C2分の生産手段とV分の消費手段(それにM2分)があるところからはじめるのでなく、C2+V2+M2分の「消費手段」がある、というところからはじめれば、少なくともマルクスなりの理屈はとおっているとおもいますが。

それでは。

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2009年7月21日 (火)

「再生産」関連の投稿(7)

ムシ暑い夜、スリム・ハーポにはまる。
「間違いなくレイジーでダウンホーム、しかし鼻にかかった声でゆる~く歌うその歌は、ブルース・フィーリングたっぷりでも、決して重さを感じさせない」(九〇年代のP-VINE盤CD添付の小出斉の解説より)。
代表曲のひとつ「レイニン・イン・マイ・ハート」。「後悔と懇願の歌だが、トゥー・マッチ深刻でもないし、力まかせによりを戻そうとするのでもなし、実におおらかで、しみじみとした歌いっぷり」(同解説より)。ほんと、その感じ。

「再生産」関連の投稿から、回数未定。2005年、高望みさんの「経済学・哲学掲示板」板へ投稿したもの。

投稿日:2005年 2月 4日(金)07時52分45秒
表式と労働力商品 投稿者:ストリング

こんにちは。

ええっと、今週、夜間はヨッパライ予定なので朝から、簡単に。

もともと個人的興味(「空費」「コスト」と「生産」「価値」とどこが違うの、とか)は別を向いてましたが、自分じしん確認の意味でも、繰り返しもふくめ、記述、デバグしてみました。

高望みさんの

>>
 今年度に所与としてあるC2は、前年度のV1+M1相当の労働時間によって生産された生産手段です。これを今年度に生産的に消費して今年度のV1+M1相当の消費手段を生産して第1部門と交換します。
 また、今年度のV1+M1相当の労働時間は次年度のC2相当分の生産手段を生産します。

 つまり、ある年度においては、一方でV1+M1相当の労働時間によってC2相当分の生産手段を生産するということと(この生産手段は次年度贈りとなる)、他方で(前年度から遺贈された)C2相当分の生産手段を生産的に消費してV1+M1相当の消費手段を生産し消費するということが行われているわけです。
>>

「この生産手段は次年度贈りとなる」、つまりこの生産手段が生産的に消費される過程は次年度扱いとなる、これはわかります。

「V1+M1相当の労働時間によって生産された生産手段」。
「V1+M1相当の労働時間によってC2相当分の生産手段を生産する」。
「C2相当分の生産手段を生産的に消費してV1+M1相当の消費手段を生産」。
ここらが少し異なってくるのかとおもいます。

たぶんそのため、

>>
 だとすると、年度がズレてはいるけれども、一年度内において行われる生産と消費の関係と実質的には同じことになります。ですから、マルクスはいわゆる二重計算の誤りを犯していることになるのではないか。
>>

この「ですから、」以下の部分がうまく了解できませんでした。

「V1+M1」と「C2」とは価値量としては等しい。これはいいですよね。新たに産出されたC2相当分の消費手段と、同じく新たに産出されたV1+M1相当分の生産手段とは交換されるのだから、交換の両項とも同量の価値物ですよね。
しかし「V1+M1相当の労働時間によって生産された生産手段」とはC2なのか、C1+C2なのか。
V1相当の労働力が行使される生きた労働によって、C1+V1+M1が生み出される。これはC1+C2に相当するのではないでしょうか(もう少しスマートに記述できそうですが、とりあえず)。

マルクスでは、新しく産み出された価値は、「労働日」中に対象化された「生きた労働」と、「労働日」中に労働によって価値「移転」(新しい現物形態で再現して保存)された不変資本部分の合計。「V1+M1相当」の生きた「労働時間」は、労賃と剰余価値との生産をおこない(これが「V1+M1相当」の新価値)、かつ「新たな不変資本価値の直接的生産もおこなわれる」(これが消費されてしまった旧価値相当分の「移転」。マルクスでは「労働日」中の生きた労働の「具体的・有用的労働」の側面から、旧い価値の新しい商品への価値「移転」をみているのだろうが)。

旧価値の「移転」(「過去からの遺贈」)とは、「労働日」中に生きた労働が直接に対象化された部分とは別に、「労働日」中に生きた労働が新生産物へと「移転」させた過去の価値相当分(これはもし労働生産過程におかれていなかったら、労働によって生産的に消費されていなかったら、単純に消費され価値物ではなくなってしまう部分)の新価値が産み出されることを指している(新しい現物形態で再現して保存)。
第2部門でいえば、過去に産み出されたC2相当分の生産手段の価値が、(消費されれば通常失われてしまうにもかかわらず)生産的消費だったため、新たに産出されたC2相当分の消費手段の価値に「移転」、乗り移る(モノとしてのV1+M1相当分の生産手段が、第2部門にいわば地理的「移動」するのとは別)。

そしてもうひとつ。
産出されたC2(=V1+M1)+V2+M2分の消費手段のうち、M1とM2部分については資本家その他によって消費され、生産過程外へ。
しかしV1とV2部分についてはどうか。資本の手元にあるV1とV2部分は、同量の価値をもつ労働力商品と交換される。結果、V1とV2に相当する消費手段は労働者によって消費され、生産過程外へ。
V1とV2に相当する消費手段はただ消費されるのではなく、労働力商品を生産過程に引き入れたうえで、労働者によって消費される。
こうして年度の初めには、生産過程にはC1とC2相当分の生産手段とV1とV2相当分の価値をもつ労働力商品が残る(V1とV2、M1とM2相当分の消費手段は生産過程外で消費されてしまう)。
第1部門にはC1に相当する生産手段生産手段とV1に相当する労働力がある。
第2部門にはC2に相当する消費手段生産手段とV2に相当する労働力がある。

次。

投稿日:2005年 2月 4日(金)07時54分28秒
表式と労働力商品(続き) 投稿者:ストリング

以前に投稿(2004/07/03)した例を、部門わけした第2部門用に、少し手直しして再掲してみます。

1万円の前貸し不変資本(固定資本補填分と原料など)と5千円の労力を資本の生産過程で生産的に消費した。
結果、ブツとしては200キロ・2万円の消費手段が新たに生まれた。
この200キロ・2万円の消費手段のうち、100キロ・1万円を第1部門との交換によって次年度前貸し不変資本(固定資本補填分と原料など)にまわし、50キロ・5千円は、5千円の労働力商品と交換した労働者が消費し、50キロ・5千円は資本家その他が消費するというのが単純再生産ですよね。

マルクスによれば、使用価値としては、この新しい200キロの消費手段全体は「年生産物全体は、その年に作用した有用的労働の生産物」(これは両部門あわせた意味でですが)とみる。
しかし価値としてみると、5千円で買った労働力商品が、生きた労働として可変資本前貸しのうち(労賃分)5千円を補填し、さらにそれを超えて計1万円分の価値を創造したとみる。さらに資本前貸し計1万5千円のうち残りの1万円分(固定資本補填分と原料など)は、生産過程で消費されつくしたが、労働の「有用的労働」の側面によって、100キロ・1万円分の新生産物に価値「移転」されたとみなす。

マルクスで、価値の「移転」ということと、新たに作られた生産物であることとは矛盾しない。
どの部門にかかわらず、はじめにあったCとVは消費され、無価値化する。
CとVの旧価値を生産的消費した結果の新生産物(新しい商品)は、CとVの旧価値を補填して余りある、(C+V+M)相当分の価値をもっている。
新生産物価値のうちの一部は「労働日」中に対象化され、一部は、消費され・無価値化した旧価値相当分が「移転」、乗り移る(生きた労働によって移転、保存された時点で今年の新商品の新価値となる)。

自分も普通にこれで納得してきましたが、高望みさんとのやりとりをとおし、「旧価値が移転」の部分の価値も「労働日」に中に対象化されたとみてかまわないのでは、という気になってきたわけです。マルクスは価値と労働日との正比例にこだわったから、ややこしく・めんどくさくなったんだろうと(これはもちろん「スミス~近経」問題とはまた別ですね)。

それでは。

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2009年7月16日 (木)

「再生産」関連の投稿(6)

「再生産」関連の投稿から、回数未定。2005年、高望みさんの「経済学・哲学掲示板」板へ投稿したもの。

投稿日:2005年 1月26日(水)20時48分49秒
C2関連のふたつのはなし 投稿者:ストリング

Jimmyさん、こんにちは。

C2に関連しては、
第Ⅱ部門C2相当部分の「生活手段」(第Ⅱ部門で生産され、第Ⅰ部門と交換される)そのもの。
この第Ⅱ部門C2と交換される第Ⅰ部門V1+M1相当分の「生産手段」。
このふたつのはなしがありますよね。

第Ⅰ部門のC1は同一部門内で循環、完結する。しかし第Ⅱ部門のC2相当分の「生活手段」は、第Ⅰ部門のV1+M1相当分の「生産手段」と交換しなければならないので、同一部門内で自己完結しない、と、これを前提として。

で、第Ⅰ部門C1については、
第Ⅰ部門の生産過程の結果でてくるのがモノとしては同じ「生産手段」なのだから、
その価値の由来を、第Ⅰ部門の生産過程で消費された生産手段の旧価値からの「移転」(「過去からの遺贈」)とみなしやすい、見立てやすいだろう。

しかし、交換されるV1+M1相当分の由来ではなく、
第Ⅱ部門C2相当の「生活手段」部分そのものの由来については、
第Ⅱ部門の生産過程の結果でてくるのが「生活手段」なのだから、
第Ⅱ部門の生産過程で消費された生産手段の旧価値からの移転(「過去からの遺贈」)なのか、第Ⅱ部門の生きた労働によって新・ないし再生産されたとみなせるのかは、C1に比較すれば、微妙といえなくもないだろう。

こんなふうに理解したのですが。

あと実体論、均衡、その他などは、よっぽど焦点を絞り込まないとこまかい議論はむずかしいし、こちらの文脈にこだわらず、Jimmyさんのイメージを展開していただければ、さまざまな他人(ひと)さまの発想を吸収しておきたい、というこちらの欲望は大いに満たされます。よろしくお願いします。

それでは。

次。

投稿日:2005年 1月27日(木)21時10分9秒
C1、恐慌 投稿者:ストリング

みなさま、こんにちは。

高望みさんの、

>>
このC2分の消費手段生産手段を交換によって受け取った第2部門は、これに生きた労働時間(V2+M2)を付加して生産物価値(C2+V2+M2)だけの消費手段をつくりだします
>>

「したがって、C2部分は期間内に生産・消費される部分となる」(高望みさん)はそのとおりでしょうが、C2部分の価値は「移転」(「過去からの遺贈」)か、生きた労働(「時間」)による「新・再生産」かというのは、上の「受け取って」「付加して」の部分をどう見立てるかの問題、新しく出てきた生産物(C2+V2+M2)価値のうちの一部の由来が、旧価値からの移転(「過去からの遺贈」)なのか、まるごと第2部門の生きた労働(「時間」)によって新・ないし再生産されたとみなせるかの問題だとおもいます。

さらに「C移転・V+M新産出」か「C+V+M新・再産出」かどちらの見立てにせよ、C1とC2で見立てが異なることはありえるのかの問題。
(C1は「過去からの遺贈」だが)「C2は「過去からの遺贈」ではない、ということではないですよね。第1部門の生きた労働がV1+M1を産み出し、第2部門の生きた労働がC2+V2+M2を産み出すということではないでしょうから、C1だろうがC2だろうが「過去からの遺贈」」は同じだろう。
「あるいは新・ないしは再生産と見立てるにしても」、第2部門の生きた労働がC2+V2+M2を産み出す(=C2は移転でなく新・ないしは再生産)と見立てるのであれば、第1部門の生きた労働もV1+M1ではなくC1+V1+M1を産み出す(=C1は移転でなく新・ないしは再生産)とするべきだろうと。
第2部門の生きた労働が、新しくできた消費手段のうちV2+M2分の価値をまるまる新しく形成する。同時に、使った不変資本分=C2分の価値を新しくできた消費手段(の一部)に価値移転(「過去からの遺贈」)する。というのがオーソドックスな理解でしたよね。
この構図は第1部門でも第2部門でも全く同じではないのですか。

たとえば〇四年度のはじめには、
第1部門にはC1に相当する生産手段生産手段とV1に相当する労働力がある。
第2部門にはC2に相当する消費手段生産手段とV2に相当する労働力がある。

労働・生産過程の結果、
第1部門には、モノとしては(C1+V1+M1)だけの生産手段が産みだされる。
内訳は、生きた労働はV1+M1に相当する消費手段生産手段の価値を形成し、(過程で生産的消費された)C1に相当する価値を、新しくできた生産手段(C1+V1+M1)のうちC1相当部分に「移転」する。
第2部門には、モノとしては(C2+V2+M2)だけの消費手段が産みだされる。
内訳は、生きた労働はV2+M2に相当する消費手段の価値を形成し、(過程で生産的消費された)C2に相当する価値を、新しくできた消費手段(C2+V2+M2)のうちC2相当部分に「移転」する。

このC2とV1+M1が交換され、この年度はおわり、

〇五年度のはじめには再び、
第1部門にはC1に相当する生産手段生産手段とV1に相当する労働力がある。
第2部門にはC2に相当する消費手段生産手段とV2に相当する労働力がある。

以下、同じ、

というのが通常の理解ではないですか。

あるいは〇四年度に第1部門で産出された消費手段生産手段(V1+M1)を受け取り・使って、同年度内に第2部門で「生産物価値(C2+V2+M2)だけの消費手段」をつくりだしたと考えても、はじめに消費手段生産手段(V1+M1)を受け取るためには、今期以前に産出されていた、C2相当分の消費手段との交換が必要だろう。ちょうど、第一部門で、今期以前に産出されていたC1が必要だったように。
「信用」を入れて、〇四年度に産出されたC2相当分の消費手段で後払い、と考えたとしても、結局は「年度・期」の取りかたの問題で一定期間内のやりとりの構造は変わらないのでは。

あとJimmyさんの、

>>
この形態的連関性こそがが積極性をとって、社会的労働生産過程を媒介的に編成するという観点こそ、最後に唯一マルクスー宇野理論で生き残る「絶対的地平」であるというのが私の立脚点です。
>>

このあたり納得ですが、「循環性恐慌」の健全さ、「循環性恐慌こそ、市場の需給の不均衡を調整する仕組みが最大限に発揮される過程であるといえる。それは決して「市場の失敗」の過程ではなく、市場調整そのものの過程であった」(『大恐慌型不況』)、周期的恐慌もふくむ景気循環をとおした(生産価格的な)均衡的編成こそ市場機能の健全な姿、という侘美さんの「市場機能2」の見解もあるし、「恐慌」については、保留にしておきたいです。

それでは。

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2009年7月10日 (金)

「再生産」関連の投稿(5)+『ポップス』という雑誌

『ポップス』という雑誌。

六〇年代の後半くらい、音楽之友社の月刊誌『POPS』を愛読してた。
平岡正明の文章をはじめて読んだのも、たぶんこの雑誌だ。
書き手は、平岡、中村とうよう、福田一郎、青木啓、木崎義二、などなど超多彩。ジャンルも、ムード音楽からスタンダード・ポップスから、フォーク、カントリーから大衆音楽全般を網羅してた。
六七年夏にはリアル・タイムでサイケデリック特集などもあり、ジミ・ヘンドリックスの名前をはじめて知ったのもその特集でだった。同時に、ジュリー・ロンドンなりペギー・リーなりのポップ・ボーカルなど含め、なんでも紹介され、併存してた。関西のアングラ・フォーク(後のURC)の情報などもあったはず。
一九七〇年の終りに終刊。

「再生産」関連の投稿から、回数未定。2005年、高望みさんの「経済学・哲学掲示板」板へ投稿したもの。

投稿日:2005年 1月20日(木)22時20分40秒
労働時間・価値・価格 投稿者:ストリング

高望みさん、こんにちは。

>>
 労働時間(価値実体)のターム ……投入労働量/取得労働量
 価値(対象化され凝固した労働)のターム
 価格(交換価値、価値形態)のターム ……生産価格/市場価格
>>

この「労働時間(価値実体)のターム」と「価値(対象化され凝固した労働)のターム」との間に楔をうちこんでやり、「価値(対象化され凝固した労働)のターム」をむしろ「価格(交換価値、価値形態)のターム ……生産価格」にひきつけてやることはできないだろうか(中野正『産業循環論』などでの「価値」(対象化され凝固した労働)は量的には「生産価格」に正比例する)のようなことを考えていました。

ただし、この「労働時間(価値実体)のターム」と「価値(対象化され凝固した労働)のターム」とを仮に分断できたとしても、それだけでは、確かに旧価値の移転なのか、旧価値を消費して新・再生産なのかの結論はでませんね。
「労働時間(価値実体)のターム」と「価値(対象化され凝固した労働)のターム」が分断できなければ、そもそも「新・再生産」(「価値」的な意味で)の見立ては成り立たない。
さらに「価値(対象化され凝固した労働)のターム」を「価格(交換価値、価値形態)のターム ……生産価格」にひきつけることができたとしても、それだけでは、「価値としては旧価値(過去に投下された貨幣価値)の移転」という見方を排斥することはできなかったですね。

>>
価値としては旧価値(過去に投下された貨幣価値)の移転、使用価値としては旧使用価値を消費して新・再生産というようにマルクスは考えていて、価値規定に関する労働価値説を括弧に入れれば、そのように考えてよいのではないかと思います。
>>

マルクスについてはそうなんだと思います。以下は昔のコピーですが、

二巻、一九章の二節の一の終わりあたり、
「単純再生産の基礎上でさえも、労賃と剰余価値との生産がおこなわれるばかりでなく、新たな不変資本価値の直接的生産もおこなわれる。といっても、労働日は二つの部分」、「その間に労働者が可変資本を補填する」「第一の部分と」、「その間にかれが剰余価値を生産する第二の部分とからのみ成り立つのだが」(省略あり、正確な引用ではありません)。
「労働日」は二つの部分から「のみ」成り立つが、同時に「新たな不変資本価値の直接的生産もおこなわれる」、というあたりのあいまいさの解釈いかんなのでしょうか。

マルクス自身は、
「年生産物全体は、その年に作用した有用的労働の生産物である。社会的に充用された労働が、さまざまな種類の有用的労働の多岐なる一体系において支出されたということによってのみ、あらゆるこれらの商品が定在するのであり、そのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらを生産するために消費された生産手段の価値が、新しい現物形態で再現して保存されるのである」(一九章の二節の三)。
と、具体的・有用的労働の側面から旧い価値の新しい商品への価値移転とみているとおもいます。

それでは。

次。

投稿日:2005年 1月23日(日)10時25分45秒
Re:Jimmyさん 投稿者:ストリング

Jimmyさん、こんにちは。

>>
再生産表式の均衡条件C1=V2+M2をもってくればまったく曖昧なところはないと思います。生きた労働は必要労働と剰余労働をしながら、同時に不変資本部分=死んだ労働を再生産していると。
>>

そうですね。
(Jimmyさんの例でいえば)マルクスは、1,000Kg+100Kgで「1,100Kgの米」。これについては曖昧ではないですね。
引用部分は、以前の高望みさんとのやりとり(04/07/01)から抽出、コピーだったのですが、そのやりとりのなかで、これまであたり前と考えてきた100Kgを「移転」とみなす発想も考え直すこともできるのかなあ、とおもいついたわけなのです。つまり「同時に不変資本部分=死んだ労働を再生産」の部分について、「移転」以外の別の見かたができないだろうかと。

>>
資本にとっては、無根拠に所与の生産手段なのですが、それがその時点での正常な生産条件であれば、その生産力に依拠して
>>

Jimmyさんの「決定不能性」。これは(「その時点での正常な生産条件」でない場合も含めて一般化させた)「生きた労働を作用させなくとも、すでに先在しかつ期末にそのまま存続している」かのような「事態」と「不変資本部分の評価替え」との関係。この取り扱いかたの問題になりますね。

それでは。

さらに。

投稿日:2005年 1月25日(火)21時03分6秒
均衡、その他 投稿者:ストリング

Jimmyさん、こんにちは。

●先ずこまかいネタで「過去からの遺贈」について。

>>
C1が第Ⅰ部門内で取引されるが、この部分が「過去からの遺贈」にあたる
>>

C2よりC1のほうが「過去からの遺贈」と見立てやすい、ということでしょうか。C2は「過去からの遺贈」ではない、ということではないですよね。第1部門の生きた労働がV1+M1を産み出し、第2部門の生きた労働がC2+V2+M2を産み出すということではないでしょうから、C1だろうがC2だろうが「過去からの遺贈」(あるいは新・ないしは再生産と見立てるにしても)なのは同じとおもうのですが。

●「実体論」。

>>
社会的生産の均衡の強制や価格の重心といった、古典力学的な実体論に陥っているからです
>>

これは「労働」価値説というより、そもそも「価値」論一般の問題の気がします。ただの需給関係の結節としての「価格」が、「自然価格」となり、「ひとつの社会体を発散・解体せしめず一点へと収斂させとりまとめていく力」「すなわち価値」(今村仁司『現代思想の展開』)へと、えらそーになってゆく。これをどう考えるか。「実体」観の問題でもありますが。
なにも「マル経」に限ったことでなく、高望みさんが整理されたように、「労働=価値タームと使用価値=物量タームも、技術的な投入・産出によって一義的にきまっている」と考える前提から見直す必要があるだろう。労働価値説に即していえば、「労働時間」や「労働量」や「労働・インプットと結果の有用物との関係」などを素朴に放ったらかしたうえでの試みは、伊藤誠もふくめて、壮大な徒労とまで言わないにしても、方向が違っていると感じていました。

●均衡、その他。

労働配分の社会編成であれ、「物質」的な意味での均衡編成であれ、均衡というのは、なにかぴったり嵌まるパーツを探し集め・組み上げていくのではなく、真っさらな紙にはさみを入れて切り取るイメージがあったのです。つまり切りと取られた部分と残り紙の部分との間に、均衡的な質量編成に組み入れられた「労働」「有用物」「価値物」と、そこからはずれた「非労働」「無用物」との間に、物理的特性上の違いはないだろうと。
諸資本の競争をつうじ、「紙切り正楽のはさみ」によって切り取られた部分が、社会的に公認され、労働、有用物、価値とみなされ、社会的に均衡が達成される。社会的に必要な(とみなされる)物量を価値物とすると同時に、社会的に無用な(とみなされる)物量から価値を剥ぎとってゆく(ちょっと「古典力学的」均衡(生産価格的)にすぎるか)。

「再生産表式」の結果としての部門間の整合・均衡のまわりに、実際には、価値物になりそこねることでカウントされず、表式に登場できず、成仏しきれない価値の「亡霊たち」がひしめいているのだが、価値物でないから「再生産表式」に表示されないだけではないだろうか。
いわゆる物量的な整合・均衡というのも結果であり、価値物としてすくいとられる物量以外の無価値のモノは使用価値、有用物ですらなくなり、「再生産表式」には表示されない。無駄なモノたちに情をかけず、常に無価値化してゆかなければ成立しないのが価値関係による特殊な社会的生産編成なのだとおもいます。

産出・出力側。過程のはじめに100キロの米があり、過程のおわりに1,500キロの米があったとしても、たとえば単純再生産「世界」にとっては1,100キロを越える400キロの米は雑草と同じで、価値物でも有用物でもない。「雑草」と区別ない無規定な混沌を形成する一要素にすぎない。この混沌からその都度の価値(秩序)として切り出されないかぎりは。

労働、投入・入力側も同じことで、過程のおわりのアウトプットAにたいし、どこからどこまでの範囲の「諸行為」や「自然」やを関係づけるかは歴史的・社会的なもので、必ずしも物理的な関係(「鉄鋼」「血と汗と涙」「俺たち」などをキーワードとするような諸行為から、ビビビッとエネルギーか何かが飛びだして、出来たアウトプットに乗り移るような)にこだわることはないだろう。「祈祷」なしにモノは産み出せないとみなす社会もあったし、コスト化された膨大な「宣伝費」などは現代の「祈祷」ともいえるわけでしょう。
労働価値説の「労働」も「価値」も、労働(特定の人間行為)の自然エネルギー代謝にでなく、労働(特定の人間行為)の社会的側面にかかわるからこそ「超感性的」規定なのだとおもいます。

それでは。

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2009年7月 7日 (火)

「再生産」関連の投稿(4)

「ジョン・バリコーン死すべし John Barleycorn Must Die」。
旅する人ジャック・ロンドンの「酒と冒険の自伝的物語」、『ジョン・バーリコーン』(辻井栄滋・訳)は社会思想社現代教養文庫。
「ジョン・バーリコーン」とは大麦酒精を擬人化した英国民謡なぞなぞ唄のキャラクター。「播かれ、耕され、雨にうたれて土から顔を出し、膝から切られ、皮をはがされ、石臼でひかれ、蒸留され、それでも不滅のジョン・バーリコーンは蘇える、大麦酒精になって」。ジョン・バリコーンの死と再生の物語は、七〇年代ブリティシュ・ロック・グループトラフィックの同名アルバムで知られていた。

「再生産」関連の投稿から、回数未定。2005年、高望みさんの「経済学・哲学掲示板」板へ投稿したもの。

投稿日:2005年 1月12日(水)08時35分59秒
Jimmyさん、はじめまして

こんにちは。
Jimmyさん、はじめまして。

Jimmyさんの集約された
>>
私の1財モデルで言うと100Kgの米と1,000時間の労働によって産出されたのは
1,100Kgの米なのか、1,000Kgの米なのかと。
>>

そうですね。

100Kg分が移転し、1,000Kgが産出されたのか
100Kg分を消費(生産的消費)し、1,100Kgを新・ないしは再生産したのか。

V+M部分については、マルクスはV部分が移転しM部分が産出されるとはみていない。
V相当分を消費(生産的消費)し、V+M分が新・ないし再産出されるとみている。
だったらC(固定資本償却分を含む)についても同様に、新・ないし再産出されたと考えたほうがすっきりするのではないか。
単純労働と抽象的人間労働とをほぼ同一視するようなマルクスの発想がこれを妨げたのでは、と考えたわけです。

今後とも、よろしくお願いします。

それでは。

次。

投稿日:2005年 1月14日(金)22時30分33秒
ジョン・バリコーン 投稿者:ストリング

こんにちは。

もともとは、以前に高望みさんの「C1部分をV+Mから控除しないと単純再生産は維持できないのではないか」というはなしがあって、これは、Jimmyさんの例にあてはめれば「1,000Kgの米」のなかからの控除のようにも読めたので、マルクスではC1部分の補填は「100Kgの米」からの価値移転だろうとおもったわけです。

けれども高望みさんの文脈とは別にもう少し考えてみると(Jimmyさんの例でいえば産出されたのが「1,100Kgの米」と考えてみると)、C1の補填「100Kg」はMからの控除といえなくもないかな(Mをひろくとってそこからの控除なら自分の例でいう(2A)、Mを通常にとってCを上乗せと考えれば(2B))などと、はなしが拡がってしまいました。

「劣化」(「錆び」など)を考慮しないでも、「100Kgの米」をそのまま放って置けばそのままのまま。米って正確にどうやって作ってるか別に、もとの「100Kgの米」を加工(消費)し、過程の結果として「1,100Kgの米」がでてくる。もとの「100Kgの米」と結果の「1,100Kgの米」との関係も単純ではないですよね。

「ジョン・バリコーン死すべし John Barleycorn Must Die」。
播かれ、耕され、雨にうたれて土から顔を出し、膝から切られ、皮をはがされ、石臼でひかれ、蒸留され、それでも不滅のジョン・バリコーンは蘇える、大麦酒精になって。大麦を擬人化したブリティッシュ・トラッドなぞなぞ唄のキャラクター、ジョン・バリコーンの死と再生の物語は、自分の世代ではトラフィックの同名アルバムでおなじみでした。

それでは。

もうひとつ。

投稿日:2005年 1月18日(火)21時07分17秒
「単純労働」時間 投稿者:ストリング

こんにちは。

高望みさんの
>>
 「生きた労働」V+Mというのは、定義上、今期のフローの労働時間で、Cの「死んだ労働」というのは、定義上、過去に対象化されたストックの労働時間です。定義を変えれば、Cも「生きた労働」の所産だとするということは可能なのでしょうか。生きた労働がかりに8時間だとして、生きた労働に際して用いられる原材料・道具・機械設備などが死んだ労働の対象化だというされているわけです。それらをも同時に8時間のフローの生きた労働によって産出したというようには「見立て」られにくいのではないかと考えられるのですが。
>>

「生産的消費」は、旧価値の移転なのか、旧価値を消費して新・再生産なのか。
これは「8時間のフローの生きた労働」と価値の実体である「超感性的」労働とを分断できるかどうかにかかっているように思います。「8時間のフローの生きた労働」を「(例えば)10時間の超感性的労働」とみなせるかどうか。

繰りかえしですが、
この見方で不都合が生じるとすれば、とりあえずは「剰余価値率」が、有機的構成の相違に応じて部門間で異なってしまうくらいか。(M/V→(C+M)/V)。
ほぼ同一「労働日」、ほぼ同一「単純労働」量であっても、いわば生み出す価値に差がでてしまうわけで、単純労働と抽象的人間労働とをほぼ同一視するような発想(マルクスの一面も含む)にとっては、マズかったのかもしれません。

個人的には、見た目の「単純労働」時間へのこだわりはもともとなく、簡単な説明のための例くらいに考えていました。
ただ「単純労働」価値説の批判から労働価値説そのものの批判へと流れるほうが普通なんでしょうが、現在流通している労働価値説批判の言説の多くが、昔の古典的「マル経」以上に、あまりに素朴な「自然」「労働」「人間」「社会」観を前提にしているように見える。
「古典派経済学批判」としての『資本論』、古典派経済学の労働価値の「実念論」とベイリーたちの価値「唯名論」(中野正をこのあたりになぞらえつつ)とをともに批判してできたのが真のマルクス価値論だ、という廣松流マルクス解釈になじんできたので、見た目の労働時間から切りはなしてやれば、まだまだマルクス労働価値論使えるだろうと感じています。

あと、トラフィックはスティーヴィー・ウィンウッドがいたので有名でしたね。

それでは。

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2009年7月 3日 (金)

「再生産」関連の投稿(3)

「再生産」関連の投稿から、回数未定。2004年から2005年、高望みさんの「経済学・哲学掲示板」板へ投稿したもの。

投稿日:2004年11月 6日(土)12時13分3秒
貨幣その他 投稿者:ストリング

こんにちは。

臨夏さんの投稿を読んで思いだしました。

七〇年代、おそらく版元の事情からか大量の新古本『現代の理論』が、一冊百円位で古書店頭にならんでいた時期がありました。「マルクス・コンメンタール」シリーズ目当てで入手したそれらの中に、表三郎の確か「マルクス物神性=物象化論の再構成」という連載論文があり、「市民社会」論者の媒体だろうにひどく宇野理論ぽいなとおもっていたら、なぜか連載途中で終わってしまった記憶があります。

個人的には、この論文中で好意的に紹介されていた永谷清『資本主義の基礎形態』(確か「「価値形態論」での「欲望の変質」に関して多くの教示をえた」というようなことだった)をはじめて知り、そこから、『資本論』を読むとはまた別の、宇野『原論』、特に流通形態論の「パズラー推理小説」ふう読み方に、しばらくハマったのでした。

それとコジコジさんの

>>
原初的な価値形態論というか、貨幣生成の論理が人間存在の本質として組み込まれてしまっていないという保障
>>

について。

たとえば今村仁司は「貨幣に物的に媒介される」という言い方で、「貨幣-物-媒介」をつなげる。そうすると、その対極に想定される、人と人との関係が透明に見通せる経済システムはいわばまるはだかの、スッポンボンの直接性のイメージになる。
そのうえで、今村はまるはだかの「透明な社会」の不可能性を語っている。つまり「貨幣がない-物がない-媒介がない」ということが「透明な社会」や「直接性」の意味内容とされ、その不可能性がいわれる。「媒介」と「透明」とを両立不可能と考え、そのうえで「媒介」の側を選び、「透明な社会」の不可能性を語る。
この両立不可能を認めたうえで、逆に、「媒介」と無関係の「透明な社会」(「疎外されざる状況」を「媒介」抜きの「直接性」とみなす)をとる立場もあるだろう。
自分は「透明」な「媒介」というのはありうる、両立可能だと考えます。透明なパンツを履くということは、スッポンボンのまるはだかとは全く別なのじゃないか。

以上はずいぶん以前の自分の投稿からの抜粋ですが、「貨幣」にも「神」にも(栗本慎一郎の用法での「パンツ」一般に)あてはまるとおもいます。たとえば「High」の特殊歴史的形態としての「阿片」の対極を想定するなら、それは「「媒介」抜きの「直接性」」ではなくむしろ「Natural High」なんだろうと。

宇野『原論』の第一編と第二編との関係は、いわゆる「流通」の場面からいわゆる「生産」の場面への(「市場」から「工場」への、実体的対象領域の)転換であると同時に、価値についての「形態的規定」の論理から「実体的規定」の論理への(対象領域ではなく対象把握レベルの)転換でもあったわけで、この後者の転換の論理こそ宇野の最大の特徴だったとおもいます。

それでは。

次。

投稿日:2005年 1月 9日(日)22時33分52秒
「過去からの遺贈」 投稿者:ストリング

こんにちは、お久しぶりです。

kazhikさん、昨晩はお世話になりました。

高望みさんの
>>
 これは、拡大再生産における減価償却(固定資本減耗)とは区別されるケースである。減価償却(固定資本減耗)であれば年々の生きた労働V+M(グロス)のうちから控除され、控除後の生きた労働V+Mがネットとなる。
>>

>>
三)したがって、過去労働C1>0は流動資本のみとなるが、それにもかかわらず年度内のフローとしてではなく過去からの遺贈としてストックのように扱う。
(四)その結果、ストックはあるのにグロスとネットの区別はないという特殊な事態が発生している。
>>

マルクスは「減価償却(固定資本減耗)」部分についても、「年々の生きた労働V+M(グロス)のうちから控除」されるのではなく、「過去からの」一部「遺贈」とみていたのではないでしょうか。

不変資本部分(「減価償却(固定資本減耗)」部分を含む)を、
(1)「新形態をもってする旧資本価値の更新」、旧い価値の新しい商品への価値移転、「過去からの一部「遺贈」、価値移転とみるのか。
(2A)「年々の生きた労働V+M(グロス)のうちから控除」なのか。
(2B)C+V+Mを「生きた労働」によって新たに形成、または再形成された価値としてみるのか。

この判断次第、結局「見立て」の問題で、どのように評価してもモノとしての「社会的な総生産物」に変わりないだろうが、この問題は「社会的空費」やコスト一般の問題へと、もう少し拡張できるともおもいます。

以前の投稿の繰りかえしですが、「不変資本」相当分(「減価償却(固定資本減耗)」分を含む)も、V部分と同様に、生きた労働によって新、ないしは再形成されるとしてもかまわない気もしてきます。
その場合、(C(「減価償却(固定資本減耗)」相当分を含む)+V+M)分の価値量が「生きた労働」によって生みだされるとなる。生きた労働が前貸し資本(「減価償却(固定資本減耗)」相当分を含む)+利潤相当ぶんの全部(C+V+M)の価値量を生む。

この見方で不都合が生じるとすれば、とりあえずは「剰余価値率」が、有機的構成の相違に応じて部門間で異なってしまうくらいか。(M/V→(C+M)/V)。
ほぼ同一「労働日」、ほぼ同一「単純労働」量であっても、いわば生み出す価値に差がでてしまうわけで、単純労働と抽象的人間労働とをほぼ同一視するようなマルクスの発想にとっては、マズかったのかもしれません。

それでは。

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