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2013年3月21日 (木)

ポストン拾い読み・感想

■ポストン拾い読み・感想

 ポストン『時間・労働・支配 -マルクス理論の新地平』収録の野尻英一による「訳者解説」より引用。

 「「労働価値説」の今日的な様相という問題がある。ポスト・フォーディズムの社会は消費生活を含む生活全般が労働化し、その「労働」が普遍化する社会として現れた。そこにおいては、いかなる活動も労働となるため、いかなる活動も労働たり得ず、したがって労働は必ずしも価値を生むわけではない、という逆説的な事態が生じる。現代日本社会における「ワーキング・プア」と呼ばれる存在は、まさに労働価値説の生きた否定である。近代が発明した偉大な神話としての「労働価値説」は、素朴な日常道徳としては「働かざる者食うべからず」という標語のかたちで私たちの内面に刻み込まれているが、「働いても食えない」ならば、この道徳訓は破綻を免れない。そこに近代の「労働」の最大の逆説があるのだが、こうした逆説が生じるのは、抽象的で現実的な「形式」(形態)が現に機能しているからであることを解明したのがマルクスである。」(野尻英一「訳者解説」、六五四頁)

 マルクス価値論にたいするこのような問題設定について、(一)ポストンの問題設定じたいは特に異議なく了解できたが、(二)その問いのポストンじしんによる回収の仕方については不徹底で「古典的・伝統的」であるとも感じた。(三)日本のマルクス派の水準と比較すればなおさら。

 侘美光彦のふたつの市場機能でいえば、周期的恐慌もふくむ景気循環をとおした、社会的生産・再生産の(生産価格的な)均衡的編成こそ市場機能の健全な姿だが、この市場機能は、一九二〇年代以降に変質したとされる。貨幣による価値尺度機能、価値秩序形成機能が効かなくなったということだろう。
 価値秩序の浮遊化状況を実体などないとするただの「相対主義」「解体化」局面と、擬似的に「実体」を「実体化」させる「実体主義」「結合・動員」局面との相補的構造の全体がそこに封じ込められた、浮遊状態。二〇世紀以降なり第一次大戦以降なりの「過渡期」世界の特質としての「不安定性」。

 「価値」、「実体」などがそのまま、見たままでは通用しなくなってくる。「絵に描いたような労働」に比しての大衆社会の中での自分たちの位置。その空隙に悩むよりは、むしろ高度大衆社会での、根を持たないかのような諸行為までも労働とよんでしまえるような、それら諸行為を人類史のなかでまっとうに位置づけられるような労働観が求められていたのだ。つまりこの大衆社会の、都市生活者の、「贅肉」あつかいされ、「あらゆる社会に通ずるような実体的な根拠を持たない」とされてきた「流通」の、正当化原理としての関係論的な労働価値説の必要性である。
 宇野弘蔵の方法摸写説になぞらえるならば、価値尺度の「骨髄を抜かれ」ふわふわとした高度大衆社会の現実によって問題設定の土俵が与えられたのだ。古典的な資本主義社会では、労働とは何であるかなどは、あたりまえすぎて俎上にのらなかったのだ。

 ポストンはともかくこの「不安定の大地」に足を置いているという一点では評価できる。

(一) 問題設定

 ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』より引用。

 「マルクスの価値のカテゴリーを超歴史的に妥当する富のカテゴリーとして措定したり、それとは反対にこのカテゴリーは次第に時代遅れとなる性格を持っており、それがこのカテゴリーの理論的な瑕疵を示しているとしたりする解釈は、価値と物質的富を混同している。そのようなアプローチは、マルクスの価値のカテゴリーからその歴史的特殊性を抜き去ってしまい、資本制社会の基底をなす基本的な社会的諸形態が持つ矛盾した性格についてのマルクスの概念を把握することができない」(ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』三二六頁)

 「バブルの文明化作用」のおかげか、三〇年くらい前に比べ、「単純な自然的労働時間」と「価値」との間の切断については、ずいぶん話は通りやすくなってきている。

 今村仁司の「非対象化活動としての抽象的人間労働」の言い回しもあったように、労働価値説の「労働」も「価値」も、労働(特定の人間行為)のエネルギー収支にでなく、労働(特定の人間行為)の社会的側面にかかわるからこそ「超感性的」規定なのだ。仮にある物理的プロセスが新生産物の産出過程(労働生産過程)にエネルギー的に関与するとみなされたとしても、それは価値形成的に関与することにならない「エネルギー収支・産出投入比」(中村修『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』)や質量編成じたいが歴史的・社会的に切り出された二次的なものであることを別にしても、価値はそもそも社会関係的な規定なのだから。ゆえに人間(労働者)サイドの筋肉エネルギー代謝(ビビビッと何かが飛びだしアウトプットに乗り移るような)の側面も価値規定には関与しない。

 「単純化された具体的労働」(単純労働)と「抽象的人間労働」との未分化もあり、マルクスも宇野でも、結局は現実の労働スタイルの変化に対応できない固定的な労働観にもとづく労働価値説になってしまったと感じる。宇野が「労働の二重性」をあらゆる社会に通じるものと拡張したとき、「抽象的人間労働」について「質料が形式につかまれたところの内容」(中野正)の側面がなかったと同時に、「具体的有用労働」についてもマルクスを踏襲したのか、特殊歴史的な形態規定性が甘かったのではないか。「経済原則の実体化」と揶揄される事態もここに原因があったのではないか。

 ただ現在流通している労働価値説批判の言説の多くが、どんな立場からの「処方箋経済学」や「現世的な効能のプログラム」にしろ、昔の古典的・伝統的「マル経」以上にあまりに素朴な「自然」や「労働」観を前提しているようにみえる。「古典派経済学批判」としての『資本論』、古典派経済学の労働価値の「実念論」とベイリーたちの価値「唯名論」とをともに批判してできたのが真のマルクス価値論だという廣松流マルクス解釈になじんできた(スラッファを前者、中野正を後者になぞらえて考えた)立場からは、見た目の労働時間から切りはなしてやれば、まだまだマルクス労働価値論使えると考えられるのだ。

「物量体系の第一次性」批判。
かつて第一次的に立てられていた「自然的労働時間」や「経済原則」の代わりに「技術的」確定性(個別的確定性であれ社会的生産編成総体としての確定性であれ)や「物量体系」を第一次的(遡及される「最終審級」)に立てることで事足れりとする発想、ここから考え直すべきではないのか。
 「投下労働」や「自然的労働時間」から「物量体系」や「技術的」確定性へと乗り換える。たとえば「正統派」伝統的「マルクス主義経済学」から「分析マルクス」へのような流れなら、ある意味理解はできる。古(いにしえ)の、ナイーブな「計画経済」志向とたいして変わらない透明な「確定性」へなら、自己の損失最小で乗り換え可能だったのだろうと。
 何「経済学」であれ、既存の「確定性」、因果関係にあまりに素朴に依存してしまえば、「貨幣による価値尺度」のスタイル、尺度の仕方の特殊歴史的形態への目配りはできなくなる。同時に「農村」のであれ「都市生活」のであれ、異世界の、物理的な因果関係だけに特化できないインプットとアウトプットの関係づけや尺度のスタイルへの目配りもできなくなるだろう。「AM派」に限らず、宇野派価値論の現状もおそらくは「物量体系」や「技術的」確定性のあたりをさまよってるのだろうが、素朴に、予め確定している自然な「質量編成」をまるごと前提とした上での「計画」なり「現実的」政策なりでは、どのような立場からの「処方箋経済学」や「現世的な効能のプログラム」だったとしても、都市生活者はもちろん農民も納得させられなかった古の「計画」や「政策」の数々と変わりない。私利私欲による喰らい合いというスタイルによって「公共性」が産出される資本制「社会」の、歴史的・社会的な網に切り取られた「質量編成」の柔軟さに比較しても負けてるだろう。

(二) ポストンの解法の通俗性 「物質的富の諸規定」と「自然と人間の関係」(三二〇頁)

ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』より引用。

 「むしろ富の物質的形態は、人々が自然力の助けを借りながら物を変容させることから生じる。つまり物質的富は、有用労働によって媒介される人と自然の相互作用によって生じるのである。既に見たように、物質的富の尺度は直接的人間労働の時間的支出ではなく、具体的労働によって客体化されたものの量および質の関数である。したがって、物質的富をつくり出すことは、そのような労働時間の支出に必ずしも結びつけられているわけではない。」(ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』三一九頁)

 たとえば白井聡『物質の蜂起をめざして』ではもう少し注意深く(?)、「物質的富」ではなく「モノ」だった。「資本主義社会において、ただのモノは存在しない」(白井聡、三二七頁)。「ヒトにもモノにも、売れるか売れないかなんかに関係なく、それそのものの価値がある。いや、価値なぞ無関係に、それぞれ勝手に存在する。そんな当たり前の事実に、虚を突かれたように気付かされたのだ」(白井聡、三二五頁)。「ヒトにもモノにも」という箇所や「いや、価値なぞ無関係に、それぞれ勝手に存在する」という箇所に白井聡の突き抜けかたが読み取れた。
 ポストンでも「有用労働」じたい、「具体的労働によって客体化された」の「によって」の因果関係じたいについてはどうなのか。→栗本と同様。

 抽象的・人間的労働の社会的被規定性の了解はそれほど困難を伴うわけではないだろう。ただ、機械制大工業の展開によって具体的労働それ自身の「抽象化」の進展がみられたとしても、それによって抽象的・人間的労働が具体的労働に還元されてしまってはならない。
 サービスを含む生産物の範囲(有用物/無用物)そのものが市場によって決定されるばかりでなく、諸行為のうちから「具体的有用労働」が切り出される手順、つまりその生産にかかわるとされる行為の範囲(労働/徒労)までも市場が決定するという関係的・形態規定的な立場を徹底すべきだろう。生産物と諸行為との間の物理的な因果関係だけにとらわれる必要などないのだから。

 そして社会的規定の第一次性は具体的・有用労働についても妥当する。どこまでの行為が、あるいは或る行為のどこまでが当該の財の獲得に一義的に関係づけられ得るのか。労働と非労働との境界はどこに存在するのか。
 具体的・有用労働もまた社会の網の目の内部に組み込まれたものであり、そこから離れられるものではない。
 我々は別の所で祈祷の例や純粋の流通費用の例などを掲げておいた。つまり具体的諸行為のうちどの範囲までが、当該の財の獲得に一義的な関係を持つ行為、すなわち狭い意味での労働であるかは、何か自然的な尺度によってではなく、社会的尺度によって決定されるのである。もち論こうして労働と社会的に認定された具体的な行為自身は、自然的な尺度すなわち時計によって測られた時間によって測定し得る。

 労働配分の社会的分業編成であれ、物量的な意味での均衡編成であれ、均衡を、なにかぴったり嵌まるパーツを探し集め・組み上げていくのではなく、真っさらな紙にはさみを入れ切り取るイメージで考える必要があるだろう。つまり切り取られた部分と残り紙の部分との間に、均衡的な質量編成に組み入れられた「労働」「有用物」「価値」と、そこからはずれた「非労働」「無用物」との間に物理特性上の違いはないのだと。諸資本の競争を通じ「紙切り正楽のはさみ」によって切り取られた部分が社会的に公認された「労働」「有用物」「価値」とみなされ、社会的に均衡が達成される。物量的な整合・均衡というのも結果であり、価値物としてすくいとられる物量以外の無価値のモノは使用価値・有用物ですらなく「再生産表式」には表示されない。社会的に必要な(とみなされる)物量を価値物とすると同時に、社会的に無用な(とみなされる)物量から価値を剥ぎとってゆく。
 しかもこれだけでは、価値の実体的規定を自然な労働時間から切断するだけではまだ満足できない。「何経」であれ、その外部に・前提され・無規定なハダカのまままどろんでいるかのように想定されている、帰るべき・確固とした・本来の・いわば「無形式的な質料」としての「実体」、「物量体系」「自然な労働時間」「投入された労働量」「質量編成」「自然」「有用性」「エネルギー収支・産出投入比」(中村修『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』)それに「経済原則」などなどにまで、「パンツを履いたサル」のフィルターを通した世界として「形式」の網を打ってやりたい。そのためには廣松の(あらゆる社会に通じる位相の)森羅万象の物象化論・四肢的存在論もまだまだ使えそうにおもえるのだ。

ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』より引用。

 「労働は生産的活動としての機能によってのみ社会的に構成するという観念は、伝統的にマルクスに帰せられてきたが、それは誤りである。マルクスの批判は、このような観念それ自体を、資本主義における社会的諸形態の特殊性から説明することができるのである。ここまで考察してきたように、商品に規定される労働は、特異な、歴史的に特殊な次元を特徴とするにもかかわらず、理論家にとっても社会的行為者にとっても「労働」であるように見えうる。」(ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』三六〇頁)

 

 「例えば私は、人間の自然に対する関係における二つの契機は区別されなければならない、ということを主張してきた。それは社会的労働の結果としての自然、物質、環境の変容と、自然的現実の性格について人々が抱く観念との区別である。これまで論じてきたように、後者は、ただ前者の直接的な結果として、つまり労働に媒介された人間と自然の相互作用の直接的な結果として説明することはできず、かかる相互作用が生じる場である社会的関係の諸形態との関連において考察されなければならない。しかしながら、資本主義において、人間の自然に対する関係における両契機は、どちらも労働の関数[所産]である。それゆえ、具体的な社会的労働が自然を変容させると、かかる変容が、現実について人々が持つ諸観念の条件をなすように見えるのである--あたかも労働に媒介された自然との相互作用だけが意味の源泉であるかのように。」(ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』三六〇頁)

 「あらゆる社会的生活は本質的に実践的である」(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)を引用しポストンは続ける。

 「後期マルクスの批判は、客観性と主観性の関係を、社会的媒介の諸構造、つまり構成しかつ構成される社会的実践の規定された諸様式という観点から分析する。明瞭なはずだが、ここでマルクスの言う「実践」とは、革命的実践のみならず、社会的に構成する活動のことでもある。労働は、マルクスの批判における諸カテゴリーによって把握される社会生活の諸形態を構成する。しかしながらこの社会的に構成する実践は、労働そのもの、つまり具体的労働一般の観点からでは適切に把握され得ない。マルクスが分析する世界をつくり出すのは、具体的労働だけではない。そうではなく、その世界をつくり出すのは労働の媒介的な特質であり、それが抽象的、一般的、客観的な次元と、具体的で特殊な次元とのアンチノミーを特徴とする、疎外された社会的諸関係を構成するのである」(ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』三五六頁)

 しかしポストンのこの観点は徹底してはいないだろう。

 「対自然的・間人間的な協働連関の動態を、そのポテンツに即して生産力、その共時的関連に即して生産関係と呼ぶ」(「歴史法則論の問題論的構制」『廣松渉著作集』一一巻、五六〇頁)。これは宇野の(直接には資本主義=狭義の経済学だけだったが)特殊歴史的形態(法則=階級関係)によって、超歴史的経済原則(実体)としての再生産過程が営まれるという論理につうじる。
 実体化されがちな宇野の「経済原則」の批判には廣松の関係論的「実体観」が使えるだろう。これは逆に本質還元で事足れり、となりがちな廣松の(『資本論の哲学』が主に『資本論』の「価値形態」の場面を対象にしながらも、資本制商品経済の固有の側面というより、そこに四肢的存在構造を確認する、摘出することのほうに比重がおかれていたように)批判には宇野の特殊歴史的人間関係としての「価値形態」が使えるということでもある。広義の経済の枠組みに広げてみれば、特殊歴史的諸関係(諸生産関係)、さまざまな社会スタイルによって常に社会的再生産が営まれているとなるだろう。すなわち生産関係のスタイルは変わってきたし森羅万象すべてにおなじわけではないのだ。
 主体が単独モデルでは、「類的本質」でも「抽象的一般的存在」でも歴史の動態は同一主体の遍歴史としか描けない。「疎外論」の対象的活動モデルは主体が単独モデルなのでもともと特殊歴史的状態を生産関係から展開できない。「物象化論」の「協働」は社会関係(生産関係、階級)含む「複数主体モデル」なので、「社会関係」が入ることで、すなわち各種形態=スタイルをとる生産関係、階級対立の位相が導入されることで、特殊歴史的各スタイルの差異を示す視座が獲得できた。

(三) 日本語圏での読まれ方

 ポストンじしんはともかく、日本語圏での読まれ方、受容スタイル。

 良くも悪しくも精緻化、進化してきた日本マルクス学の独自の展開(宇野でも廣松でも)に比べて欧米でのマルクス理解はかなり古典的・伝統的。文脈、土壌のもともとのネジレ。さらに非マルクス型の日本の紹介学者も日本マルクス学の精緻なコンテクストを無視しているのでさらに混乱を増幅。新しいトレンドと古臭いマルクス解釈の混交、新鮮で同時代的なことがらと、あまりに素朴すぎる古典的な議論とが妙なネジレ具合で接合していた(古いはなしだが、八〇年代近くになってもまだ『ソ連邦経済学教科書』が主要な仮想敵だったネグリ『マルクスを超えるマルクス―『経済学批判要綱』研究』の「現代思想ふう」の評価のされ方とか。あるいは一九六〇~七〇年代の平岡正明による「自立小僧批判」=やまがたカッコにまもられたベタな内面にうっとりした<私>への批判は、当時の西欧の「人間中心主義」批判、古典的な人間「主体」批判などと同時代的に通底していたのだ)。

 「訳者解説」での野尻英一の廣松の「生産」、「生産手段」観の評価(同、六四九頁)や宇野の「流通形態論」独立化の方法の評価(同、六五〇頁)はどうだろうか。
 野尻は「鍵は人間労働の抽象性にある」(ポストン『時間・労働・支配-マルクス理論の新地平』六三五頁)とする。しかしこれだけでは、「人間労働の抽象性」だけでは、常識的なままなのだ。ポストンならむしろ、「労働」にかぎらずいわば「人間の実践」すべてにわたる「抽象性」「媒介性」だったのではないのか。

(1)千円の商品Aがあったとして、この千円を貨幣で評価された価値とみれば商品Aの交換価値。
(2)この千円は、抽象的人間労働の文脈では価値の実体的規定となり、この商品Aを社会的生産編成の中に置いて考えようとするとき必要な規定である。
(3)この千円を七百円のコスト(費用価格)と三百円の利潤とみれば商品Aの生産価格となる(もちろん背後に社会的労働編成の構造があるわけだが)。
 価値の形態的規定とは、貨幣によって購買されることでこの千円が実現されるというような、特殊歴史的な人間関係の文脈での規定。抽象的人間労働の凝固=「価値」の社会的な評価・合意形成が、貨幣による商品の購買というかたちでおこなわれる独特の手順(対象物をたんなる有用物(生産物)としてでなく資産(商品)としてみるような、資本制社会に独特な手順)それじたいをとらえるための規定。
 「対自然的・間人間的な協働連関の動態を、そのポテンツに即して生産力、その共時的関連に即して生産関係と呼ぶ」(「歴史法則論の問題論的構制」)という廣松のフレーズもある。価値の実体的規定、形態的規定とも人間関係には違いないが、人間関係の特殊歴史的な形態に即してみれば価値の形態的規定となり、ポテンツの相でみれば、凝固された抽象的人間労働の社会的必要量としての価値の実体的規定となる。

 特殊歴史的文脈での抽象的人間労働の、あらゆる社会に通じる位相への拡張は可能だろうか。特殊歴史的文脈での抽象的人間労働の「凝固」を、抽象的人間労働側からではなく、いわば「凝固」の側からすくいとれるだろうか。廣松『資本論の哲学』は商品・貨幣を例題としながらも、本人の主観的な意図とかかわりなく、商品への抽象的人間労働の「凝固」とはまた違った形式であるにせよ、さまざまな当該の社会なりに固有の「凝固」の構造・あらゆる社会に共通する「森羅万象の物象化」一般の構造をあつかっていたのではないか。

 たとえば栗本慎一郎による「「労働=生産」説の批判」の仕方

 「芸術と犯罪は、紙一重というより、もともと同じものなのである。法なるものが、これに境界線を引き、犯罪かどうかのラベルを貼る。・・・大まかには、共同体内の高エントロピー処理に役立つものは、共同体のシステムを維持するものだから芸術とか英雄的行為(戦争)だとかとして法によって目されるし、逆に、行為それ自体は表面上全く同一に見えても、その中で共同体のシステムに「乱れ」を与えるものは、高エントロピーの生産となっているのであって、これが犯罪と目されるものなのである」(栗本慎一郎『幻想としての経済』四一頁)。

 この区別は行為そのものの物理的過程の違いに由来するものではない。この区別はあくまで当該社会にとっての意味の相違にもとづく、「シナリオ」上の役割りの相違にもとづく区別なのである。犯罪と芸術の例のように実体的におなじでも関係的に異なる場合もあれば、河川や海の汚染をもたらす生産の例(同前、四二頁)のように、実体的には芸術的=犯罪的行為とは違っても関係的には同様に犯罪とみなされる場合もある。しかし栗本は「労働=生産」説を批判するという「学説史的背景」を考慮すればしかたない部分もあるとはいえ、線引きの弾力性の問題が生産的労働にまで十分貫徹されていない。
 より重要なのは行為のルーチンじたいも歴史的・社会的であることの認識である。生産的労働とみなされるひとまとまりの行為、これがどの程度まで生産的労働とみなされ、どこからが切り捨てられるのかは、何ら物理的な基準によるものではなく、純粋に歴史・社会的な線引きによるのである。ナイフで刺すという直截に物理的な行為を殺人と因果関係で結び犯罪と目する社会もあれば、カラスの羽や五寸釘がその役割を担う社会もある。これは生産的労働についてもまったく同様であり、対象に物理的変容を加えるかのような行為だけを生産的労働とみなすのは、決して超歴史的な事態などではない。時と場合によっては、「純粋な流通費用」や「祈祷」などが生産的労働とみなされても不自然なことではないのだ。
 栗本では「生産的労働」そのものに限っては、通俗的な水準のままで放置してしまったため、生産的労働と非生産的労働との間に引かれる一線は硬直化してしまっている。さらに栗本の場合、「犯罪=芸術」が(生産的にせよ非生産的にせよ)労働ではないとされるのだが、労働と労働でないものとの関係も不分明なままである。労働の範囲の拡張の試みはそれだけでも画期的ではあったが、これだけでは、物理的な労働時間にもとづいた
古典的・伝統的な労働価値説もまた無傷のまま放置されてしまうのである。

 価値と労働との自然性的な一体性、具体的労働と抽象的・人間的労働との究極的な同一視、さらに労働と力仕事、汗仕事との同一視。古典的・伝統的価値論が依拠してきた以上のような「民衆の先入見」は、すでに「消費社会」のもとで崩壊してしまっていた。
 一九七〇~八〇年代、ゴドリエ、メイヤスーなどフランス系のマルクス派経済人類学からフランク、アミンにまでつうじる、基軸的「中心部」にたいする同時代的「周辺部」の理論的導入。主要生産様式にたいする副次的生産様式の導入。「社会構成体」カテゴリーの再措定。あるいはポラニーらの成果を踏まえた非マルクス派経済人類学による市場世界の相対化。非市場世界の歴史軸に沿った導入にもとづく”コンパラティヴ・エコノミーとしての経済人類学”の提唱。閉じた体系としての価値論の枠組みは、時間軸、空間軸の両面から挟撃された。
 「単線的発展段階説」批判や「(通俗的な意味での)「生産力」主義」批判、「人間中心主義」批判、「進歩主義」批判を大枠とする、一九七〇~八〇年代の「経済人類学」や「第三世界」論議のインパクトが価値論にもたらした反響が予想を大きく上回るものだったのも当然である。すでに、古典的に解釈された労働価値説--文学畑の表現論から相倉久人「活性化理論」に至るまでの全ての古典的・伝統的労働価値説--はその土台そのものを喪失していたのだから。

 侘美流の、つまり「すでに時代は変わり、作動条件は失われていたのに、「準備金」にしばられた「金本位」にこだわっておきたのが一九二九年大恐慌、以後は「大恐慌型不況」」、というストーリーとのアナロジーでいえば、生活様式・再生産構造の地殻変動と古典的生活慣習(ポピュラー・ノルム)とのアジャスト(調整)の過程が六〇年代後半の社会的大変動だったともいえるだろう。象徴的にいえば米ヒッピーと中紅衛兵の無目的な・膨大な場所の移動など。これによって社会生活の規範、慣習は事実上の下部構造の動きに対応した生活様式(ライフスタイル)へと着地してゆく。
 すでに失われていた作動条件と既存の構造との軋轢が六〇年代後半の生活様式の大変動=「大恐慌」だったのだとすれば、これ以降は「大恐慌型不況」ふうに、継続する「不安定」へと、資本主義の新しい生活様式・蓄積構造へと調整、吸収されてゆく。
 資本主義の下でもすでに作動条件を失っていた「マッチョで「健全」な「進歩主義」」(=「金本位制」!)は権威を失墜させていったのだ。

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